「自己(私なるもの)」とは、己れの意識が繋留される‘場’なのであります。
ところが、この意識が裂けるときがあります。自己なる場に繋ぎ留められず、
意識の裂け目からこぼれ落ちた事象もしくは感覚イメージは
もはや顧みられることなく、漂流してゆきます。
そして、それはいつしか意識の届かぬ心の深底の闇に
藻屑として沈んでしまうでしょう。
自己(私なるもの)とは無縁なものとして・・。
それがいわゆる‘無意識’と呼ばれるものです。
ところが、私といういのちは、己れの意識から葬りさられた、
生きられなかった私なるものとの繋がりを執拗に希求し続けます。
従って、死に体の私が何かの拍子に心の深底から浮上し、
私の意識に掴み取られて、甦る瞬間があります。
それらは、一見カオスのようであり、名づけようのない恐怖になるかも知れず、
しかしながら同時に、一筋の光として歓喜を意味することもあり得ましょう。
私といういのちの真実、その摩訶不思議さに驚愕し、そして魅了され、そうした‘衝撃’に
深く心打たれたもの、それが「精神分析」を擁護する者たちといえましょう。
彼らの本来の任務とは、より積極的に、そうした意識の陥没に身を投じ、自己から疎外され、
生きることを肯(うべな)われなかったいのちたちを救い出し、
蘇生させ、賦活させんとすることにあります。
生きられなかった私が生きられる私へと変容してゆく、そうした一つの契機として
無意識との邂逅に向かい合うことが要請されます。が、そのためには何よりも
「自己(私なるもの)」が‘衝撃の器’としてあることが求められましょう。
その‘衝撃’を受け止めてこそ、それがアルもの(実在)として認知できるのであり、もしも
‘衝撃’に耐えられなければ、それは依然としてナイもの(非存在)でしかないからなのです。
まずは、それらが果たして名づけ得るものかどうか、忍耐が試みられます。
名づけられるということは、つまりそれはそれだと知る(Knowing)ということですが・・。
そうした意識の覚醒には、どうやらまず‘衝撃’に烈しく打たれ、そして心砕かれて、
ハッと気づくということ(awareness)ということが必要不可欠な手続きのようです。
思考(Thinking) の始まりとは、真にそこにあると思われます。
それは教えられて学べるものではありません。他者から伝えられる術はないのです。
己れ自身の経験からしか学べないものです。己れの心の真実を通してのみ、見えてくるものなのです。
しかも、その遅々とした意識の目覚めは、常に懲りずに眠りへと堕してゆく己れとの闘いになりましょう。
飽くまでも己れの闘っている相手とは、己れの中の非人格化 Depersonalization であります。
私の意識なるものは、私の生成を促し、常に己れ自身を構想せんとするものです。
目指すべきは人格 Personality であります。そして、心の装置は何よりも
心の痛苦なるもの Psychical Pain に対処します。
その負荷が過剰であれば、生命維持のため、そして非人格化という代償を払ってでも、
内なる毒素を外へと解毒・排出しようとします。
それ故に結果として人格性は危殆に瀕し、つまりは無感覚・無感動・無思考へと至ることになるのです。
それらの人格形成を阻害する要因を自分の心の内側に尋ねてゆく作業が「精神分析」であります。
自己挑戦ともうしますか、挑戦するのも自分なら、挑戦されるのもまた自分なのです。
そうした個々の内なる心的相剋を見据えてゆきますと、
人というものは、その生涯をとおして己れを忘れるために生きているものやら、
己れを想い出さんがために生きているものやら、さてどっちなのかと
訝しく思うことがしばしばあります。
さてそこで、己れ自身を振り返り、
私の語れる限り、かつて体験した、忘れ得ない‘衝撃’について
想い出してみようと思います。決して語るには容易ではない、
それらエピソードの幾つかを今ここに語ろうと思うのです。
怯む気持ちを抑えながら、そして口ごもりながらも・・。(2013/03/15 記)
しかしながら、自慰行為をすれば、神経症になるとやら痴呆化を促すやらと喧伝されたのはそう昔々のことではない。精神分析も、ある時期までそうした世間の風潮に与していたともいえる。1920年代の国際精神分析学会の演題にもなってるわけだから。勿論、聖職者とも違って、自慰行為を罪として弾劾する立場ではないにしろ、当然ながら諸手を挙げて<大いに結構ではないか、お好きにどうぞ>と唱えることをなし得ない事情がある。それは、日々の臨床の中で、自慰行為に関連しての空想phantasyが患者の口から吐露されるのがしばしば聞かれる。そこには秘めた罪やら咎めの刻印が拭いようもなくあるのである。その事実は、まるで‘風見鶏’のように世評があっちこっち右顧左眄するのとはおよそ無関係だ。 この「自慰空想(masturbatory phantasy)」なるものを正面切って果敢に掘鑿したのが、児童臨床の現場を最も強みとした、クライン派の精神分析家 Dr.D.メルツアー(Donald Meltzer)である。因みに、【タヴィストック・クリニック】のセラピイ・ルームで、穴のあいてない天井など一つもない。水浸しにならなかった床など一つもない。そしておそらく、かつて赤いクレヨンで毒々しく血塗られなかった部屋の壁など一つもない。惨憺たるものなのだ。心底震撼させるものがそこにある。それがセラピイの現場での日常茶飯事なのである。 「自慰空想」とは、遡ればフロイトの「死の衝動(death instinct)」に列なる概念である。「死の衝動」、すなわち己れ自身のいのちを貶め、賤しめんとする‘躓きの石’なるものを、分析の転移状況下で徹底操作した、その臨床的‘果実’である。これは、ほとんどDr.メルツアーの独壇場といってもいい。あくまでも個々それぞれが己れの心の内に抱える‘内的対象inner objects’の様相にまなざしが見据えられている。それらのいのちの‘滅び’〔疲弊・不毛・不能〕に焦点づけられている。 自慰攻撃(masturbatory attacks)は、内なる対象を賤しみ、嘲い、穢す。その刃はまた翻って己れ自身を突き刺す。かくして執拗なる迫害的内的対象を抱えてしまう。‘やったらやられる、やられたから又やり返す’の堂々巡りの死闘の中、悪循環がとことん制御不能となる。詮ずるところ、こころの‘不実(insincerity)’、言い換えれば<アッカンベー!!>といった類いのものと言えよう。そして己れの心に‘疚しさ’が巣くう。すなわち、穢れ〔罪)の意識である。これがいのちの活力を腐蝕させ、疲弊へと導かれてゆく。言い換えれば、いのちなるものの‘根腐れ’といえよう。 私たちは、己れを破滅へと引きずり込むものが自分の内にあることについて概して無頓着でいられる。そして日常的には無意識の帳(とばり)の奥にしまい込んで生きている。ほとんど心のその部分は‘化石化’しているともいえるから、意識から疎外され、滅多なことでは顧みられないままだ。だからその正体なるものは概ね不明とされる。だが、何かの拍子に猛然と息を吹き返し、己れを致命的なダメージに晒すことがなくもない。ついでに誰彼をも巻き添えにすることもあろう。ごく些細なことかも知れない。家庭内で、或いは教育の現場でも日常茶飯事に起こり得よう。或いは、巷で驚愕を引き起こす社会的事件として勃発しないこともない。例の秋葉原の無差別通り魔殺傷事件のように・・。悲鳴が聞える。あの場の被害者たちの悲鳴が・・。だがその悲鳴とは、そもそも加害者の中にあったはずのものだ。彼自身がそれを聞くことを頑として否認し、自ら担うことを放棄していたがゆえのツケとも言える。<自分が誰に何をした?> <自分が自分に何をした?> その問いかけは問われずじまい・・。 だが、己れの心とは、知らないつもりで実は知っている、知っていても知らないふりができる、でもそうした自分をどのように欺こうにも、尚も欺きとおせないものがある。知ってて知らない、でも知らないで知っている。そしてそれをまた知っている自分がいるのだから・・。自分が見た夢を、なぜこんな夢を見たのかと衝撃に身を震わすこともあろうが、たかが夢だとすぐさま忘却する。この自己欺瞞の姑息さ、そして隠蔽工作という‘こころの詐術’に果敢に切り込んだともいえるのがDr.メルツアーである。 フロイトの‘反復強迫’という概念がそうだが、いのちは己れ自身を開示し陳述するべき機会を求めている。もしも正しく聞かれることさえあるならば・・。<そんなの、知らないもん!!知っちゃいないもん、アッカンベーだ!>と、抵抗しながらも・・。いのちは本来知られることを、聞かれることを希求する。精神分析という場は本来そうした機会の一つである。己れの黙して語らずの‘化石化’された、しかも執拗に自縄自縛するこころに火を付けられ、いのちを吹き返す。分析の転移状況とは、この知ってて知らない、でも知らないで知っている自分というものを、すなわち「知」と「不知」とのせめぎあいを契機として、「知る」へと転換させる力を潜在的に孕むところの‘場’なのだ。決め手となるのは心の痛み(psychical pain)の受容力である。根腐れたいのち、麻痺した感覚、膠着化した心が浄化され、覚醒してゆく。フロイトのいうところの徹底操作(work-through)の所以である。 フロイトの「死の衝動death instincts」という概念を誰よりも真摯に引き継いだ感のあるメラニー・クラインだが、その直弟子の中でも唯一といっていい、メルツアーに託された心的領域であり、フロイトの「死の衝動」という概念にさらに踏み込んだ、それは心の‘滅び’なるものの解明であった。これにDr.メルツアーは「自慰空想」と名づけ、真実その心が紡ぐ想念の何たるかを問うた。それに体を張って、突っ込んだ。そこに彼の真骨頂がある。ユダヤ移民の末裔でありながら、彼にはアメリカ人特有の開拓者魂(フロンティア・スピリット)がある。それに妙に清教徒的というか、頑固一徹ともいうべき一途さがある。旺盛な好奇心と信念の赴くままに果敢に突進する。ブリテッシュともドイツ系とも違う、お行儀にはあまり頓着しない、直情径行の天真爛漫さ(イノセンス)が彼の特質であろう。 しかしながら、この「自慰空想masturbatory phantasy」という概念は、衝撃的でもあり、所謂‘お行儀の悪い’心の領域だから、アカデミズムとの擦り合わせの必要からか、専門職の間でもどうやら不人気で、無垢なるはずの子どものあまりの猥褻さ・猥雑さに誰しもが辟易して当然ながら忌避する。それを懐柔せんとしてか、メルツアー自身、「自慰空想」をあまり表沙汰にしなくなってゆく時期がある。むしろビオンの思弁的な言語に‘意匠’変えしてゆく。1970年代後半には自らを‘ポスト・クライン派’と名乗るに至っている。当時私は違和感を抱いた。「自慰空想」がビオンの「-K」となるのはなにやら寂しいし、つまらないではないか。ところが愉快に思うのは、メルツアーに言わせれば、彼の処女作 『Psychoanalytical Process』(1967)〔『精神分析過程』 飛谷渉訳・金剛出版(2010)〕がやはり一番の彼のお気に入りなんだそうだ。確かに、それはそうだろう。児童分析(さらには成人の精神分析)の臨床現場の渾沌と狂熱がそのままに伝わってくる。ここらを素通りして、【クライン派精神分析】は分かったことにはならない。腑抜けた、綺麗ごとになる外無い。さらには、どうやら最晩年のメルツアーは自分を‘クライン派’だと名乗るに至っているとも聞くから、尚更に愉快だ。さもありなんと私などは思う。根源的にいのちというものは猥褻で猥雑なものだというのが私の持論だが、そもそも ‘お行儀の悪いもの’、それがいのちだとしたら、それから眼を背けては‘不実(insincere)’になろう。むしろ欺瞞に加担することにもなろう。 メルツアーの諸論文をまとめたものの題名に『Sincerity』(1994)とあるが、ここに彼の生涯を賭してのこだわりが窺われる。Sincerityとは‘理智なるものの誠(まこと)’ではないか。そして、もしかしたらとふと閃いたことがある。19世紀のアメリカン・ルネッサンスの中核的な思想家 R.W.エマソンだが、今やオバマ大統領の座右の書として専ら評判なんだとか。アメリカで生育ったメルツアーの若かりし頃からのR.W.エマソン(1803-82) の感化をここに見ることはできないかと・・。メルツアーの人となりの、光を求めて闘う‘熱塊’のルーツがそこにあったのかもしれない。さらに連想するに、<イギリス人を相手に分析できるようになるのに優に十年は掛かった・・>と、彼は私に述懐されたことがある。一見して‘Englishness(イギリス人らしさ)’にすっかり‘同化’したようにお見受けしていたのだが・・。それがつい最近のこと、彼の文章の中に珍しくもアメリカの女流詩人 エミリ・ディキンソン(1830-86)の言葉が何気なしに引用されているのを眼にし、あらあらっと思った。彼の中に紛れもなくアメリカ人魂(the American mind)が息づいていて、その心の内なる燠火(おきび)が燃え上がることも折々にあったろうか。彼という人にエマソン流の「活動する魂」を見る。それ故に‘権威筋’やら‘制度’とは掛け離れたところに敢えて‘彼独自’を謳うことを善しとしたのであったろうか。時としてイギリスの精神分析の仲間内ではエキセントリック〔奇矯〕と噂されることもあったらしいのだが・・。案外彼の中にunbribableな心意気、つまり容易には買収できない、なかなか馴化されにくい気質を見るようで、私はむしろ愉快に覚える。メルツアーの人格なるものがその思想と乖離していないと思えることは安堵だ。そして、もしも私の直感どおりに、エマソン、ソロー、ホイットマンら、アメリカン・ルネッサンスの巨星たちと一脈通じる心性を彼が保持してるとしたら、実に腑に落ちる。そこには一様に、‘内面’の完全な開放をめざし、いっさいの限定を越えんとする志向が窺われる。この流動してやまぬ‘内面’を、エマソンは「活動する魂」と名づけている。翻って「自慰空想」の憂慮されるべきとは、それが即、心の非人格化 (depersonalization)に繋がっており、いのちを育むことを蔑ろにし、痛苦の感受性を麻痺させるということに外ならない。人格性(personality)を擁護するのが精神分析だとしたら (そして無論、宗教・哲学・文学のいずれにしても同様だが)、この心の非人格化の領域からの脱却を目指す闘いとなるのは当然の理だ。無関心は非人格化への傾斜を黙認することになる。したがって、理解することから始めよう。 まずは、「自慰空想」が猛威をふるう臨床現場のほんの一端をご覧にいれよう。 ハンナという女の子がいた。【タヴィ】での私のトレイニング・ケースである。週5セッションのセラピイは1年半に亘り、成功例として終結した。治療終結を間近に控え、彼女の両親と面談をしたとき、彼らはその成果に対して私に心からの感謝を表明した。彼女は9歳になっていた。来所当初、失禁やら指しゃぶりやらとなんとも不様としか形容しようがなかった女の子が、実に心身ともにすっきりとして、ようやくにして9歳という年齢相応の真っ当な女の子になったとご両親は手離しで喜んでおられた。ガールスカウトやら乗馬やらと意気軒昂で・・。それだけではない。彼らは、ハンナがどれほど‘優しい子’かを私に訴える。<娘の優しさに自分たち親は値しない・・>と迄に彼らは涙ぐみながら語った。実に感動的であった。 私の方からも、大いに学んだものがあったと伝え、彼らから全面的なサポートをいただいたことに感謝の意を表し、さらに日本に帰国後、ハンナとの治療記録を纏めて、ぜひ出版したいと彼らに申し出、快く承諾を得た。名前を変えるという条件付きで・・。 そして、彼女との最終セッションを迎えたのである。一見穏やかな別離であったというか、これといった感情の爆発もなかったわけだが・・。ハンナはいつか私が日本から戻り、また会えると思いたがっていたのは明らかだ。心残りは、普通ならば当然予定されるべき一年後の「回顧面談review-meeting」の確約を彼女に毛頭与えられないことだった。彼女を振り切ったような、だから申し訳ないという一抹の思いはあった。だが彼女の外的現実には何ら不安材料はなかった。治療終結はDr.メルツアーの判断でもあったのだ。だからというか、彼女には<Sorry!(ごめんね)>とはついぞ言わなかった。そして最後のセッションを終え、彼女の立ち去った部屋の中に一人残されて、私は或るものを凝視していた。そして、呆然自失のまま、しばし立ち直れなかった。私の眼が捉えていたものとは、ガラス窓にペタッと貼り付けられた一枚の紙であり、それはセッション中に彼女が鋏で作った切り紙細工なのである。それはごく普通に‘パターン’と呼ばれていて、変哲も無いギザギザ模様であった。学校で課題として日頃よくやっていたに違いない。それを彼女はわざわざ水に浸し、塗らしてから、部屋のガラス窓に貼り付けたのである。ご自慢の‘作品’を部屋の外にいる誰彼にも見せびらかしたいといった具合に・・。「躁的防衛manic defense」とも名づけられるだろうが、それにもまして私の頭に過ぎった或る想念ゆえに、成功例として終結したという私の楽観が裏をかかれたと愕然とし、深く打ちのめされた。 一枚の白い紙は水浸しで‘穴’だらけであった。確かにそれはパターンと呼んでいい。模様ではある。が、あちこち切り取られて、痛々しくも‘穴’ぼこだらけだ。一枚の白い紙は母親の乳房breastsであり、母親のお尻buttocksでもあり、おむつnappyでもあるとしたら・・。それは疑いようもなく、メッタ刺しにされた‘糞尿’まみれのオムツ(=母親・乳房breasts=母親・お尻buttocks) という他ない。転移状況からして、それこそが私なのであった。メルツアー仕込みの私の眼には、それはまさにそのように見えたのである。この‘欺瞞’というか‘偽装工作’には肝を潰す思いがした。それを敢えて譬えるならば、‘南京虐殺’の悪夢とでもいっていい。そこに私が見たのは、実にジェノサイド(集団殺戮)の光景なのである。狼藉三昧の犠牲となったのは、彼女の内的対象(すなわち、内なる母そして子ら)であり、さらには勿論、転移としてだが、彼女を捨て日本に帰国する私であり、日本で私が新たに抱え育てるであろう‘分析の子ら’であったろう。私との別離に当たり、かくして彼女の根腐れた‘心的現実’の凄まじさが露呈した。これこそが「自慰空想の真実」といっていい。 それでこそ腑に落ちた。一年半前に私の眼の前に現れた彼女の風体が何ゆえにあれほど醜悪uglyであったかを・・。そして彼女の深刻な問題なるものを初めて知り得たと思った。彼女の心の内界は‘廃墟’なのだ。おぞましい狼藉と略奪によって無惨にも荒れ果て、瓦礫の山がうずたかくあちこち散乱し、さらには死骸が、男といわず女といわず、そして赤子といわず、累々と積み上げられ、臭気を放っている、そうした酷くもおぞましい惨状を呈していたのだ。彼女こそが、無慈悲で死臭を身に纏う‘闇の帝王ダーレック’そのものであったと言えよう。<応答願いますContact Please!>と彼女は必死に訴える。が、その救済を求める叫びになぞ誰の手も届きようのない奈落の底に沈んだまま・・。そこはNowhere,すなわち行き詰まり(dead end)である。かくして‘閉所恐怖症’的悪夢を彼女は生きていた。その恐怖terrorはあまりにもtoo realであったのだ。確かに1年半のセラピイにおいて、彼女は闘った。私も傍らで一緒に闘った。その共に闘った相手、その敵なるものとは彼女の‘非人格的部分’であったわけだが。最後の最後、私との別離のセッションで、又しても息を吹き返した。そして傍若無人な暴挙に身を委ねたのだ。ふとナチス政権下でのヒットラーが髣髴とされた。去りゆく私へ向けて、侮蔑に彩られた報復以外の何ものでもない。勿論巧妙な偽装の下にではあったが・・。詰まるところ、<ざまを見ろ!アッカンベーだ!>というわけだ。ハンナの涙は冷たく凍てついていた。 私は、ハンナの分析治療を終了したことを一瞬悔いた。時期尚早であったのではないかと。が、私の帰国は迫っていた。その時点ではDr.メルツアーとのプライヴェート・スーパーヴィジョンは終了していたから、私は、簡単に手紙でハンナの症例がめでたく終了した旨を彼に報告しただけで、この最後のセッションの衝撃については胸奥に秘めて語らなかった。誰に語れるというのか・・。 彼女は今9歳にしてようやくに潜在期閾に差し掛かり、それにふさわしいチャンスを手にした。学業に専念し、意気揚々と新規蒔き直しに挑戦している。それもよかろう。この終わりは又いつか新しい‘始まり’に繋がろう。おそらく生きて尚も己れ自身の内に躓きを抱えていることに気づくことがあれば、改めて分析再開もあろうわけで・・。ともかくも私の出番は終わったと、幕引きにしたのだった。 心理臨床に携わりながら、精神分析家として分析患者に対して情愛を抱くのはごく自然だ。患者が外的に適応してゆくことを成果として喜ぶのもいいだろう。だが、患者が誰であろうと、分析家にとってそれが誉れとか手柄にはなり得ない。それどころか終始一貫、分析家自身が己れに対しても、また患者に対しても‘油断ならぬもの’として見ることを強いられているとしたら、それはきつい。慰められたい、誇りに思いたい、報われたい、あわよくば感謝されたい、それらすべてを断念しなくてはならないとすれば、確かにきついだろう。だが、それが徹底してプロフェショナルの規律disciplineというものなのだ。それで、何のため、誰のためかと問われれば、「こころの真実」の探究のためと答える以外なかろう。 私が【タヴィストック】から戻り、日本で今尚クライン派・精神分析家として在るのは、誰のせいでも誰のお蔭でもない、偏にハンナに起因していると言い切れる。彼女の最後の置きみやげ、その衝撃が ‘クライン派’の烙印を私の額に刻んだ。私は打ち震え、掻き乱されながらも、それを甘んじて引き受けるしかなかった。そこにこそ、私は‘こころの真実truth’を見たのだから・・。 「自慰空想」の実態なるものを知ろうとするなら、メルツアーの著作に親しむこと以外にはない。だが実際に児童臨床に携わった経験がないとしたら、それらの著作はセラピイの現場に、それも転移状況に密に直結しているわけだから、そこに叙述されてあるものの字面をどう撫でまわそうと、おそらく目の前に繰り広げられる事象は認識不能であろう。意味不明瞭でチンプンカンプンというわけだ。勿論日本に限ったことではない、イギリスにおいてもそうなのだから。実に奇態なシロモノというわけである。たとえセラピイに携わる人であったとしても、自分の中にそれを見ることが出来ないとしたら、スルーしてしまう。つまり眼を逸らせば、自分の見た夢も一瞬にして記憶する間もなしに影も形も無いものとして消えうせてしまうようなものだ。すなわち衝撃は抱えられず、意味不明なまま、こころはすぐさまそれを異物として排出してしまう。それが何かしら意味あるものとして見えるとしたら、自分の内にその衝撃を‘己れ自身に関わる何ごとかmy business’として引き受けた者にしか無理だ。セラピストであることは、とりわけ‘衝撃の器’であることが肝要だという所以である。だが、そのためにはやはりパーソナル・アナリシスが必須条件となる。それ無しでは<お守り・子守りのセラピイ>に留まるのが無難といえよう。敢えて踏み込めば‘火遊び’ともなろうし、お勧めはできない。さらには、メルツアー流の‘解釈’のみが一人歩きし、学会発表レベルで取り沙汰されてゆくのはどうも剣呑だ。 ふと或ることが甦った。その昔々、若かりし頃、私は『京都大學大學院・教育学部』に在籍していた。地下に【心理教育相談室】があった。そこで私は、ヒロ君という、5歳になる吃音を主訴とした男の子のセラピイを担当した。その頃のことをよく思い出す。遊戯室で、彼は毎回、砂場で女の子の人形を生き埋めにすることに執拗に熱中した。その傍らに居て、私の眼は目の前に見ているものに焦点づけられはしていても、私の心は何ら応答し得なかった。たまたま隣接した観察ルームでマジックミラー越しに学部の学生たちがセッションの一部始終を見学していた。彼らの眼にしたものが衝撃であったのだろう、セッションの終わった後、私はセラピストとしてどのように感じていたのかと、その一人の誰かに問われた記憶がある。だが、私がなんと答えたのか覚えはない。おそらく容易には言語化し得なかったろう。ヒロ君は下に弟ができたことで混乱していたのだろ、それくらいは解っていたと思うが・・。 やがてそのヒロ君は、吃音が治り、終結をめでたく迎えた。‘お兄ちゃん’になったというわけだ。これは、私のセラピイの最初の‘成功例’であった。だが、この経験は疑いもなく未消化のままだった。自分がセラピストとして何をしたのかも、子どもの問題症状が治癒したことが何故だったのかもわからずじまいで・・。猛然と無能感に苛まされ、心に疼きを抱えたまま、途方に暮れた。このままでは駄目だということだけは骨身に染みて分かった。 今振り返ってどうにも笑ってしまうのだが・・。そのヒロ君との最後のセッションを迎えて、よく頑張ったわねというねぎらいの意味で、彼に何か贈り物をしようとした。セラピストとして未熟というか、無邪気だったというべきか。無意識裏には、何かしら彼に本来与えるべきものを与えられなかった‘埋め合わせ’であったろうか。そして彼は、その当時流行していた‘怪獣’を所望した。ウルトラマンではなくて・・。だからお別れに、私は彼に怪獣の人形を2個与えたのだった!あの程度の<お守り・子守りのセラピイ>を良しとすることは今や私に出来ることではない。精神分析家として「こころの真実」こそ彼に知らせるべきであったと悔やまれる。だが、その真実を語ること・語られること、知らせること・知らせられることを一体誰が欲しているというのか。おとな・子どもを問わず・・。それこそが、私が帰国後30年余、日本での臨床において常に問うてきたことであった。時として心砕かれ、そして時として励まされながらも・・。 ここで「自慰空想」を一概に弾劾しているわけではない。だが、それを野放しにすれば、行く先には心的荒廃devastatingがあるということに警鐘を鳴らしたい。いじめ、児童虐待、家庭内暴力、そして近年世間を騒がす無差別殺傷事件の多くは、それを物語ってはいないか。その無惨さを未然に喰い止めんとするならば、やはり心の救済を希求する姿勢が問われる。まずは自分の心の動きに真摯に関心を払うことから始めたい。めざすは、R.W.エマソンの「Self reliance(自己信頼)」なのだ。自分という生が生きられるために、そして他人の生を守り、共に生きんがために・・。 |
「精神分析言語psychoanalytical language」というのは、分析セッションにおいて転移と逆転移とが切り結ばれる、まさにその接点にこそ生まれる。予め‘台本’なぞあるわけでは毛頭ない。まるでジャズセッションのように、それぞれ奏者のcall & response の掛け合いのようなもので。先の見えない一刻一刻の時の流れのなかで、言葉は波間にたゆたうように変幻自在となる。実際には一回限りのジャズセッションでも、記譜ということがあり得るだろうから、繰り返しも可能だろう。分析の場合も、我々はセッションの後でセッション中の言葉のやりとりを逐語的に記録するよう訓練を重ねるし、その跡を辿るや、そこに‘筋’が現前することをやがて知るに至るのだが・・。 筋立てが前もって無いものに向かい合うことは名づけようのない恐怖でもある。いうなれば、手も足も出ないというやつだ。つまり言葉が生まれる前はいつもそうだ。だから、つい‘借り物’の筋立てに頼り、それをなぞってしまうことになりがちである。例えば、フロイトのエディプス・コンプレックスとやら・・。だが、それはもはやセッションの中では使い物にならない。敢えて使うならば、お座なりの死んだ言葉でしかなくなる。そして、分析セッションは陳腐なもの、野暮なもの、そして腑抜けたものとなる。 Dr.メルツアー(Donald Meltzer)がかつて語っていた。解釈をされたことに応えて、分析患者が言う、<Yeah, I think so‥(ええ、分かってますとも)>といったふうなことじゃダメなんだ、と。お座なりの返答、それ以前にお座なりの解釈がもしかしたらあったのかもしれない。そこに何が欠落してると彼は言いたかったのか。つまりは、分析家と被分析者が言葉を交わしながら、ハッとすることがない。あっ、そうだ!という心底衝撃に打たれ、心砕かれることがない。それじゃ詰まらないだろう。それで分析の10年などあっという間に過ぎてしまう。その不毛感、空虚感に抗うこともなしに、それが分析だとややもすると思い込んでしまう。知らないふりやら知ったふりやらが幅を利かすだけで・・。 我々は生きた言葉を探して、絶えず絶えずセッション中の転移と逆転移の切り結ぶ地点に立ち返る必要がある。分析家は分析患者の語る言葉に心打たれ、心砕かれる、その心の用意(器)が問われる。また同時に、己れが語り得た言葉に衝撃を覚える瞬間にこそ遭遇したいと心底願うことではないか。そこでは、まず私たち分析家は‘手なし娘’なのだということを観念すべきなのだ。手がない、つまり言葉を持たない私がいるということだ。ところが、それが或る拍子に言葉が出現する。手がない、つまり言葉を失った私が、手を持つ、つまり言葉を掴む瞬間がある。それを‘奇跡’と呼ぶのは大袈裟だが。何故にそれが発せられたかは往々にして謎だ。ただ言えることは、セッションの場で、自分と共に在る相手に応えなくてはならないとのプレッシャーに分析家が堪えているということだろう。そして、そうした場でしか起こり得ない‘発語’があるに違いない。それこそが‘伝統’の底力と言っていいのかも知れない。実に「精神分析言語」とは奇態である。我が手の内に抱えねばならない、決して迷子にしてはならない、その一念に尽きる、そうした呼び掛けの中でこそ言葉は紡がれ、織り交ぜられてゆく。それら言葉の織物、それが‘わたし’であったり、‘あなた’であったりするわけで・・。私は分析家の一人として心底それに魅了されてきたとも言える。 実際に誰しもが分析セッションを体験したら、その奇跡に遭遇し得るや否やは分からない。だが分析患者は、ジャズセッションにもやはり似て、奏者の中でごく自然に心のリズムが沸き起こるように、言葉で応えられることにより、さらには言葉で応えんとするときに己れが己れを超えて、言葉を持つことがあるのだ。凄いじゃない!って、私なぞはそれらを伺いながら、時折信じられない思いで感嘆することがある。無我夢中の、その瞬間にナイものがアッタになる 。この瞬間に自己なるものは自己を超えた何者かになる。普段は‘手なし娘’であっても、<あっ、手があった!言葉が言えた・・>ということだ。そうした自己超克を味わう。自分という命がこんなもんでしかないといった日頃の怠惰な諦めが払拭される。まだ生きていなかった、まだ知らなかった自分への尽きない興味に突き上げられ、自分というものに対してレスペクト(敬愛/respect)することを学ぶ。そうしてこそ、尚も知ろうとする、そしてまだまだ生きようとする私が生まれるはず・・。 赤子は眠りながらも微笑むことがある。ごくごく自然に・・。その至福の瞬間を赤子の権利として擁護せんとしたのがフランス人の医師フレデリック・ルボワイエ(Frederick Leboyer)であった。その背景には当時の産婦人科病棟の苛酷な現実がある。母体のケアに忙殺され、分娩後の赤子の方は丸裸で泣き叫ぶままにテーブルの上に放置されがちであった。この胎内からの突然の剥奪状況を少しでも緩和するための改善策が提唱されたのであった。実にパイオニア的業績であったろう。それは機能的・効率的・思弁的な「西欧的智」なるものへの警告であり、痛苦への感受性を快復させんとする、或種の人間革命ではなかったかと今振り返って思う。 彼は、1974年に『Birth without Violence』という題名で画期的な著作を出版している。〔和訳は、『暴力なき出産』(村松博雄訳 ベストセラーズ1976 &中川吉晴訳 星雲社1991)である。〕 他にも赤子らの微笑を写真集にして出版したと記憶している。どの子も深くて安らかな笑みを浮かべ、実に‘お地蔵さん’みたいに、いいお顔が揃っていた。産婦人科医Dr.フレデリック・ルボワイエは、或るインドの村落で伝統的な「赤ちゃんマッサージ」の光景をフィルム撮影し、その製作したものをひっさげて1970年代後半に世界各地を講演して回った。【タヴィストック・センター】が彼を招聘した。レクチュア・ルームでの彼の講演に私も聴衆の一人として出席している。その折に彼の持参したドキュメンタリー映画が上映された。そのタイトルは《loving hands》であった。‘愛撫する手’というわけだ。 インドの或る村落の庭先、木陰の柔らかな日差しの下で、サリーを纏った母親が丸裸にした赤子を自分の伸ばした両脚の上に乗せている。たっぷりめの油を手に塗り、赤子の手足をそして全身をマッサージしてゆく。初めフギャーフギャーと肢体をバタバタさせ、落ち着かなかった子が母親の口ずさむウ~ウ~ウーという緩やかなリズムに宥められ、徐々に穏やかな呼吸となり、弛緩してゆくのが分かる。母子間に言葉掛けは一切無い。ごく日常的な子育ての日課なのだろう。おむつ交換にも似た、もの慣れた実務的な仕草で、母親に格別に情緒的な没入や耽溺があったようにも見受けられない。時折、母親の唇にごく優しげな笑みがこぼれたが・・。 このフィルムにも、そしてDr.ルボワイエの訴えにも私はなんら違和感を覚えなかった。それどころか、私の幼少時、頭が痛いと訴えると、私の母はよく私の頭を撫でてくれたし、脚がむくんで痛いと訴えると、脚を揉んでくれた。その母の手のぬくもりと癒しが思い出され、どれほど懐かしかったことか。 講演終了後に、レクチュア・ルームからセミナー・ルームへと移動し、同僚たちとの話の輪に加わった。私が嬉しくってどんなに感動したかを口にしようとした時だった。教官のMrs.S.Hoxterが開口一番、<よくもあんなものを見せてくれた・・>と嫌悪と侮蔑とを露わにした。耳を疑った。出鼻を挫かれて私は一言も声を発することが出来なかった。誰も彼もが同様な意見で。私には心地いいsoothing と感じられた、インド人の母親の手の感触が、彼女らには脅かしthreat と感じたのだということが判明した。赤ちゃんマッサージが、やれ拷問だの、やれ身体的侵入つまりレイプだというわけなのだ!彼女らが一様に凄まじい反撥・拒絶(生理的なアレルギー反応!)を示すのを目の当りにして、私は驚きを通り越して、凝然と凍りついた。彼女らは私とはあまりにも異質だと思った。まさに自分がとんでもない場違いな所に居るといった衝撃が胸中を刺し貫いた。 あの映画 《loving hands》に容認しがたい何があったというのだろう。かつての彼らの元植民地インドへの蔑視から来る、劣等な民族の下等な風習と見たのだろうか。サリーを身にまとったインド人の女人がいけなかったのかもしれない。サリー=下層民というわけだから。ここに大英帝国の植民地支配の歴史的‘負の遺産’ともいうべき痕跡が窺われる。即ち、‘手’を卑しむことである。それが彼ら英国民の心にそして身体に紛れもなく刻まれている、階層を問わず・・。 或いは、そこにインセスト(incest/近親相姦)的な‘官能性’を見たということであったのか。男の子が真っ裸で、当然なことに下に付いているものが丸見えだったから、それがお行儀よくないというわけだったのか。素肌を見せることは野卑というわけだし、裸足などはとんでもないのだから。だが、この場合の彼らの不感症的な反応はむしろ訝しい。母子間における皮膚接触を忌避している。皮膚の快楽を賤しめている。彼らが身体の「気持ちいい」を拒絶する人たちだとしたら、果たして心の「気持ちいい」を分かっていると言えるものかと私ははたと疑念が募った。異端なるものへの不寛容が気になる。精神分析を擁護することの代償が偏狭な心であったり、‘不感症’であっては断じて困るのだ。人としてのごく自然な喜悦を抑圧してはいないか。<喜ぶな!>というわけではまさかなかろうが。だが、もしそうだとしたら、あまりにも殺風景ではないか。それこそ容認しがたいというものだ。【タヴィストック】に集うイギリスのミドル・クラスの知識人たちが幼少期からしてどのような育ち方・育てられ方をしているものやら。自ずと私とは違うと察知された。当時私は、【タヴィ】でのトレイニング・コースの後半にあったわけだが、瞬時にして【タヴィ】への愛着が無惨にも引き裂かれた。足場を失い、総てが瓦解するといった茫然自失状態に陥った。身体性の無視(もしくは肉体への嫌悪感)の実態は、私の英国滞在中からずうっと引きずってきた西欧文化への批判(懐疑)の根幹をなしているものである。 実際のところ、マッサージといった皮膚接触を‘卑猥’とする向きがあるとは承知していた。それは彼らの文化なのだ。事実として、イギリスにはその寒冷な気候ゆえに、リューマチや腰椎で苦しんでいる人たちは数知れない。薬物治療には限界がある。だがマッサージ・指圧・鍼灸などの代替医療はまるで注目されていなかった。むしろ忌避されていたように思われる。原始的primitiveというわけだ。体の強張りを手でほぐしてやるということを知らない。その一方で、心の強張りを言葉の介入でほぐすことには熱心であるわけで。私が当時専念していたサイコセラピイがまさにそうであると認めざるを得なかった。徹底して彼らが‘言語(ロゴス)優位’であることを改めて思い知らされた。私たち日本人から見て、実にロゴスこそ我々に欠落している点でもあるから、彼らから学ぶことは大いに結構ではあるけれども・・。しかしながら、クライン派に限らずだが、多くの分析関連の著書が巷に流布され、それら翻訳ものが私たちの目に触れるとき、そこにいつも私は慨嘆を禁じえないのだ。<ああ、‘手’がない・・>と。 作家・丸山健二の小説 『百と八つの流れ星』(2009)の中の一つに《餓死》という短編がある。彼は自分の書くものの中で「心の風穴」という言葉をよく使う。冷たい風がビュンビュン吹きさらしになっている。それはまた、荒ぶる魂の噴火口ともなる。そうした心の風穴を覗き込んで見た風景やら出来事が冷徹な筆致で書き綴られてゆく。時として狂暴さが噴き出して、猟奇的ともいえるような事件が描写されていたりするから、そこに安易な慰謝なぞ期待すべくもないのだが・・。 この短篇は、一人の幼子が山奥の一軒家に置き去りにされ、餓死するという話でしかない。そもそもどこから流れ着いたものやら解らぬ身元の怪しいあばずれ女が、まだ色気は十分だったらしく行きずりのごろつき男に誘われるまま、逃避行には足手まといになると我が子を置き去りにして、出奔したというわけだ。母親がいなくなった後、お腹をすかした幼子は家中をよたよた這いずり回り食べ物を探す。茶箪笥の上にあった菓子の箱をどうにか箒で叩き落し、湿気ていた煎餅を手にして、それで一週間ほどは辛うじて命をつなぎとめた。そして程無く、なんの甲斐もなく餓死するのだ。そこに、麓の村の小学校に通う女の子が登場する。親には流れ者のよそ者にはかかわり合うなと固く禁じられていたのに、山中の家の幼子に惹かれ、またこっそりと覗きにやってきたのだ。そして彼女がそこで見たものは、蝋人形のように強張り、冷たくなった幼子の遺骸なのだ。それを見た彼女は、哀れさといとおしさに我を忘れ、その幼子を両腕に抱き取る。そしてやおら自分のセーターをたくし上げ、少しもためらわずに乳首を幼子の唇に押し当てる。そして、出るはずもない乳を飲ませようとしたのだ。この物語の結末は優れて衝撃的である。私はこの女の子がたまらなく好きだ。 無思考のなかから、つまりは意識せざる意識の裂け目から、無垢なる本能が顔を覗かせる。幼い少女の中の己れの‘母性’を、その萌芽を信じて疑わぬ、決然とした本能が噴出する。その一端が見事に描かれている。ここに希望がある。人類の未来を夢見ることはまだ可能だという意味で、ここに「文学の力」を改めて感得した。 「丸山健二」のどの作品にしても滅多な事では安易な救済なぞ頑として斥けられている。だからこの短篇の筋立ては稀有なことだ。珍しくも慈愛の眼差しが漂う。彼のいうところの‘心の風穴’に一瞬ポッと温もりが灯ったようにも感じられた。単なる作家の思いつきの一つ、彼の頭脳が産み出した想像物でしかない幼子に対し、作家が思わず憐憫の情を催し、それに突き動かされ、つまり、哀れなり!と感じた瞬間に、作家自身の意図を突き抜けて、突如この少女のまっすぐな本能がせりあがってきたとはいえないか。作家ご本人に問うてみたことはないが、さぞかし作家自身も、ああ、これで良かったと安堵したのではなかろうかと、私は勝手に勘ぐっている。これが私のいうところの‘手なし娘の奇跡’なのである。 Dr.W.ビオンには、和訳では「夢想」とされているreverieという言葉がある。どうやら彼は、分析という場で分析家の無意識が分析患者の無意識とともに常に開かれてあるといった体験at-one-ment (即ち、to be one with/一体となって)ということに言及しているらしい。それがどういう状態を指すのか、彼が具体的に描写し得ているようには思われない。どこまでも謎めいた印象の拭えないのが実に苛立つ。まるで禅でいうところの‘明証’にも似て・・。誰もが悟りを目指そうとしながら、たとえ遂に誰かがその悟りの境地に到達したとしても、その明証を得たという事実をついぞ第三者に説明し得ないといった感じなのだ。だが、もしかしたら、それはそんなに難しいことなのではないのかも知れないと、ふと思った。それは、この「餓死」という短篇の中に登場する女の子のように、まっすぐな本能に根付いた自然智(じねんち)とも言えはしないか。 自然智とは、「自己に本来備わった智。師の教えによらず、自然に得た智。おのずからそうであること、ひとりでにそうなること」と辞書にはあった。因みに、《餓死》の中には、女の子が幼子の遺骸を腕に抱き、その幼子の口に自らの乳首を押し当てる前に、下記の叙述があった。 「・・やがて少女は、遅ればせながら赤子の面やつれに気付いた。また、食べ尽くされた煎餅の空箱にも・・。すると、一気に情感が煮詰まってゆき、わが子に対して為すべきことを為さなくてはという母性に支配された。・・」そしてひとりでに手が伸びて、己れの乳首を幼子の唇に押し当てるという行為が続くのだ。まさに、これこそが「自然智」ではないか。reverieとは、意識的に想念を凝らすだけに留まってはならない。‘おのずから’行為へと敷衍されてこそなのだ。因みに、雛鳥をその懐に抱える親鳥を想ってみるがいい。 私は、ビオンの中に深い懊悩を見る。そもそもreverieとは、生涯を通しての彼の‘願掛け’であったろうと思われる。その由縁を遡り、憶測するならば、おそらく親たちの中に彼が見た‘欠如’に辿り着く。その欠如とは、大英帝国の威信に懸命に殉じた彼ら親世代の誰の中にも一様に、そしてついぞ己れ自身の中にも見出すことの出来なかったものではなかろうか。即ち、‘おのずから’の感情吐露である。晩年に彼が著した擬似小説的で自己分析の記録ともいうべき『Memoire of Future』なぞにはそうした彼の悪あがきの四苦八苦が窺われる。私の言葉でいうなら、心に‘手’を有し、言葉に‘手’を有せんと希求する精神の苦闘のことだが・・。誰かと自分が分かり合えたと思えること、嬉しくも結ばれてあるということが感じられる、そのためにこその‘知’であったものが、だがいつの間にか、まったく異なるものへと摩り替えられてゆく。業績とか栄達とか権力が志向され、他者を支配し、懐柔せんがための道具となる。哀しいかな、それは親子間でも例外ではなかったろう。それだって何もイギリス人、それも大英帝国の植民地インドに駐留する公僕を父としたビオンにのみ限ったものではなかろうが・・。そして、それこそが「無明」なるものである。「自然智」とはそれの対応語であろう。‘手’触りのある知が欲しい。そして、知が真に関わりへと戻ってゆくためにこそ、『精神分析』は元来あるということを、ビオンは語ってはいなかっただろうか。 それは、‘知’の抑圧という囚われから自ら解き放たれて、‘自然’へと回帰するということでもあろう。私たち日本人は昔から‘おのずから’という言葉の意味をよく知っている。自然とか本然とかいう言葉もそうだが、それらに愛着してるとも言えよう。それらは我らの文化に根付いている。それも、いつ頃からか聞かなくなったが・・。今それを復権させるにしても、その意味も価値もチンプンカンプンではなかろうか。西欧化一辺倒の教育のお蔭で、私たちにとってもそれは学び直さねばならない何かになってしまっている。だから、ビオンなのだ。彼が目指したものというのが、いうなれば元々私たちの身体に染み付いている価値感覚であり、そして今や顧みることのないものだとしたら、実になんとも痛快ではないか。勿論歴史を振り返れば、道元でも親鸞でもいい、或いは鈴木大拙なり西田幾多郎でもいい、我らには先達が多々いるではないか。だが、師の教えによらず、ということが言われている以上、‘おのずから’とか‘ひとりでに’とか、その真に意味するところの言葉の行方を私たちは心理臨床の「場」に於いて見つけてみようではないか。一人ひとりが、ビオンに倣って・・。そのために、まずは己れの中に‘手なし娘の奇跡’を果敢に追い求めんとすることではないかと思われるのだが・・。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※ 【補記】 1970年後半の或日私が【タヴィ】で見たDr.ルボワイエのドキュメンタリー映画 《loving hands》をどうにか再び眼にすることはできないかと思った。それで、もしかしたらと勘を頼りにパソコンでYouTubeを検索してみた。そして、何とメッケタ!のである。「shantala massage」で検索すると、その一本が実にあのときのあのままの《loving hands》であった。その濃密な内容のフィルムがたったの6分17秒というごく短いものであったのはむしろ驚きだった。さらには、母親のオイル・マッサージの手業が、ただ赤子の皮膚を撫でさするだけではなくて、思いのほか力を込めたものであったのを認め、ちょっと意外でもあったが・・。それも、皮膚の下の筋肉にリズムをもたらすということらしい。まさに母親の胎内の波動そのままの心地よさを取り戻してやるんだとか。最後の辺りで見せた、まどろむ赤子の眼のとろんとした顔がそれを物語っていた。からだがほぐれるとか開かれてあるという感覚とはこういうことかと、成る程と改めて感じ入った。 このインドの伝統的な赤ちゃんマッサージは、このフィルムの中の母親Shantalaという名に因んで、「shantala baby massage」という名前で世界各地に普及していると知った。YouTubeで閲覧する限り、フランス、イタリア、スペインなどが圧倒的で、溌剌としたママさんたちの何と誇らしげなことか。我が子との触れ合いのなかで、彼女らもまたかくも充たされ、自信に満ちているのだ。一方イギリスでは、赤ちゃん教育熱は概して高まりをみせているものの、身体面よりもどうやら社会的(social being)な育成に重点が置かれており、やはり趣きが異なるようだ。我国日本では、インド式健康法「アーユルヴェーダ」に関心のある一部の若いママさんたち、そして助産師さんたちにはこうした赤ちゃんマッサージが注目され始めているらしい。昨今の世界レベルでのヨガ・ブームにしてもそうだが、現代に暮らす私たち、特に産む性である女性は、自分の身体に‘異変’が起きていることを敏感に察知して、対応に余念がない。子を孕むことも産むことも、そして母乳で子を育てることもなにやら困難なからだになっていくことを女性たちは深刻に危惧している。それぞれ懸命にありとあらゆる選択肢を模索している。食生活からくる、或いは運動不足やら諸々のライフ・スタイルからくる、からだの変調(冷え・凝り)にも敏感である。からだが硬くなり、閉じてゆく。母親たちがそうならば、子どもらがそうでないはずはなかろう。 フレデリック・ルボワイエは、パリ大學を卒業後、産婦人科医として活躍するが、精神分析を学んだことから、従来の出産方法に疑問をいだき、その後インドに渡って、その地の伝統的な出産方法から決定的な影響を受けたと聞く。彼自身がヨガやらアーユルヴェーダなどの実践者でもあるらしい。そこで彼の著作 《Birth without Violence》の増補・改訂版(Healing Arts Press 2009)を手にしたら、嬉しいことに彼のポートレイト写真が大きく掲載されてあった。彼の顔に浮かぶ微笑の、なんと深く慈しみに溢れていることか。感動した。その眼差しのやわらかさは欧米人の男性にかつて見たことのない、ごくごく稀有なものに思われた。そこに、まさに彼が見てきた、そのものが証しされている。即ち、産婦人科医としての彼がこの世に招いた、一万人を優に超えるといわれる赤子らから彼が直接もらったところの微笑である。彼の見たもの、実にそれが彼の一部になっているというわけだ。謙虚にして悦びに充たされた、なんというハンサムないのちの佇まいであろうか。さらに写真の中のもう一つ、彼の逞しい大きな手に惹かれ、注目した。彼の手業なるものをぜひとも見たいものだと思った。またまたパソコンでYouTubeを検索した。そして、何とメッケタ!なのである。「NASCERE - dal metodo Leboyer 」というタイトルのが一つ、そして他にも。そこにルボワイエのまさに‘愛撫する手(loving hands)’があった。 まずそこで最初に目にする映像は我々のかつて見知ったところの、ごく普通の分娩直後の赤子たちである。顔を引きつらせ、手足をばたつかせて、泣き叫んでいる。その顔は苦悶にうち震えている。なんとも恐しい表情である。次にそれとは対照的な、まるで趣きの違う出産風景が繰り広げられる。暗がりと静粛のなかで忍耐強く、ゆったりとしたペースで、産道から赤子は導き出される。おもむろに赤子は臍の緒の繋がったまま母親のお腹の上にうつ伏せに抱きあげられる。その背中に静かに置かれた愛情深い母親の手、そしてそこに添えられたルボワイエの両手が、赤子の背中に懐かしい胎内の波動を響かせてゆくのだ。ゆっくりゆっくり深く強く、打ち寄せる波のように・・。臍の緒がまだ脈打っている間に・・。やがて、内外の隔たりが消えうせ、かつて味わってきたからだのリズムを取り戻し、怖気づいて、ぎこちなかった赤子のからだはうっとりと弛み開かれてゆく。ふいと赤子の両目がかすかに開きかけるのだ。それから、赤子は湯舟のなかに入れられる。ルボワイエの両腕にしっかりと抱きかかえられて、赤子がそれにすっかり身をゆだねているのが感じられる。そしてあくびをし始めたり、指を大きく広げて口に入れてしゃぶるやら足を蹴るやら。からだがまさに‘遊び’始めるのだ。両目がぱっちり開いて、ここはどこって感じで周りを不思議そうに眺めている。やがて、湯舟から引き上げられ、心地いいまどろみの中で、ルボワイエの両手に支えられた赤子の顔面には、ゆるやかに大きく微笑が花開くのである。その心底満足を湛えた微笑は、まるで<我ここに在り、すべて快(こころよ)し>と語っているかのようではないか。少しの抵抗も、わずかなためらいも、かすかな緊張も、少しのこわばりも、いかなる疑いの片鱗もない。新たな生を喜びとともに迎え入れた一瞬である。眺めるこちらにもしみじみといのちの愛おしさが胸いっぱい膨らんでゆく。そしてふと思う。いつの頃からか、我が国の子どもらのいのちが年々薄くなってゆくようだと指摘されてきた。自分のからだが、そしてこころもが触れ合うことから疎外され、そうした心地の悪さ故に重苦しくもいのちが萎えてゆく。そんな懸念が募る。生の充溢とは何かが改めて問われよう。 たまたま或る女性のブログを覗いた。我が子が『シャンタラ・ベイビィ・マッサージ』を施された後、フワーッと眠くなって、うとうと気持ちよさそうに寝入ってしまうんだとか。それで、そんなに気持ちがいいものなら自分もと思ったようで、就寝前に夫婦揃って互いに代わりばんこに背中をマッサージし合うことにしたんだとか。それも大いに結構ではないか。親子であろうと、夫婦であろうと、絆を深める相互の間には、‘心’が欲しい、‘言葉’が欲しい、そして何よりも‘手’が欲しいのであるから・・。 |
当時は‘鳥’の置物というのは珍しく、なかなか得難い。だが、変なものでその気になって探すとあるところにはあるのだった。池袋のサンシャインシティの中に舶来ものの雑貨屋さんがあった。そこで或る物を見つけた。部屋の書棚の扉が曇りガラスであったから、そこに置くにはかなり色目の派手なのがいいと思っていたから、それはちょうど良かった。白い椿のような花が咲いてる樹に鳥の巣があって、雛が2羽、大きく口を開けて、傍らの親鳥に餌を求めている。それらを見下ろす位置に大きく翼を広げた鳥がいた。それがなかなか見たこともない派手な赤い色をしていて、確かに曇りガラス越しにも置物として格好のもの。大きさからしても見栄えがする。値段が3万円もしたからちょっと散財したとは思ったが、滅多にはない出物と喜んで買い求めた。ところが、その包装された紙包みを手にエスカレーターを降りながら、何かしら心に引っ掛かるものがあった。妙な違和感を覚えた。イヤーな感じなのだ。何がイヤーなのか分からなかった。それが部屋の所定の位置にうまく収まったのを確認した後も、その重苦しいイヤーな感じを心が引きずっていた。その赤い鳥がイヤーなのだと思い至ったのにも時間が掛かったが、何がどうイヤーなのかは分からない。ただ不穏な気配が漂うのだ。ぼんやりと見慣れぬ赤い鳥を心の内でもて余していた。ずうっと後になって知ったのだが、その馴染みのない鳥は、アメリカやらハワイなどでは公園や住宅街でよく見かけるカーディナルという鳥で、オスは赤くて頭に小さなトサカみたいなのがあり、眼の辺りには隈取りがあるから、いかにも面妖という感じなのだ。そして買い求めてからなんと2週間以上も経て、書棚に収まっているその鳥の置物を眺めたその瞬間に、ふいとそれが「鳥の家族」」だと初めて気付いたのだ。当然そうであろう。オスとメスと雛たちで、つまりは全部が家族なのだ。赤い鳥がオス♂で、メス♀は目立たない薄茶色。鳥のオス♂が概して派手な色目で、メス♀が地味な色目をしているのはよくあるわけだから、何も不思議はない。メス鳥と雛たちとは同じ色目で、それとはまるで違うど派手な赤い色のオス鳥を一つの「家族」として認識し得なかった自分が実に解せない。オス鳥は、メス鳥と雛たちを抱え込むように翼を拡げていた。それを私はどうやら‘脅(おびや)かし’と勘違いしたというわけだ。あの重苦しくて‘イヤーな感じ’というのが何かといえば、それは侵入者に対する警戒心であり、脅威に晒されているという緊張感なのだ。つまり、「父なるもの」を‘異物’として見ている自分がいたということになる。これは衝撃だった。 今更ながらで、己れの錯覚が信じられない思いで呆然とした。未だに母親との二者関係に固執し、そこから父親を排斥せんとしている幼い自分がいると思うと愕然とした。だが、そんな筈はないと反論をする。頭は混乱した。イギリスから帰国してかなり年数は経ていたし、その当時、私は休暇の度に両親の許に帰省し、母親とも父親とも実にいい関係であったわけで、どこにも諍いの種などありはしない。父親は自分が興した会社《舞鶴艦船サーヴィス》を潔くも人手に渡し、引退後は姉夫婦の住まい近くで暮らすことに決め、滋賀県大津へと引っ越した。それから父親が暇に飽かして京都やら奈良やらと観光地を訪れるのに私もよく付き合った。美術館巡りやら東寺の骨董市詣でにも父にくっついて一緒に出掛けた。二人で腕を組んで歩き、誰が見ても仲良し親子で、私はロンドン留学の不在と親不孝の埋め合わせをしているつもりだったから、今更ながらの父親への‘排斥感情’にははたと戸惑い、釈然としない思いで自分の胸の内を覗き込んだ。 そこで父親に対する忌避感を辿っていくうち、幼少期に遡って、ふと一つ思い当たることがあった。私の父親は警察予備隊に入隊して以来、秋田の母親の郷里に私たち母と三人の娘らを残し、赴任先の山形やら松本、そして九州の久留米へと単身で転々とした。折々に父親から母宛に封書が届いた。それを読み、父親の近況を知ったわけだが、母親は必ず泣いた。その涙する姿を幼い私は嫌った。父親から音沙汰があるのをむしろ母と娘ら三人の平穏な暮らしを乱す‘侵入’と感じた。そして、母親が泣くのが解せなかった。そもそも父親は、舞鶴から疎開し住み着いた母の郷里には馴染まなかった。母は八人兄弟の末っ子で、その連れ合いとしての父は皆に大事にされたし。その真面目一辺倒の彼の人柄、それに容姿端麗というわけで、秋田の親戚筋ではひどく人望があった。停車場への道すがら本から眼を離さず読みながら歩いてる、その学究的な姿に前郷の村人らはたまげた。昇さんは学のある人だというわけで、一目置かれた。母親が愚痴をこぼしてもむしろ逆に諌められるくらいなのであった。 だが、いかんせん。酒の飲めない父親にすれば、酒豪揃いの秋田の親族が集う宴席は苦痛でしかなかった。一人っ子で育った彼には、そうした親戚づきあいにはへどもどすることが多かったのだろう。だから、折々に父親がその鬱憤を母相手に晴らしてもおかしくはなかった。慣れぬ田んぼの稲の植え付けなどを手伝っている夫の姿に、妻としては不憫で済まない思いもあったろう。ひたすら母親は耐えた。だから、父親が居れば、母も娘らも緊張した。彼は気の休まらない人だったから、不在であるのはむしろ私たち、少なくとも私には、嬉しかったという覚えがある。父のたよりに涙する母が解せなかった。<なんでめそめそするのよ。お父さんなんて、居なくていいじゃないのさ・・>と、心のなかで呟いたことを微かに覚えてる。おそらく5歳頃であったろうか。 そして6歳になった頃、北海道の札幌に父親の赴任が決まり、ようやく残された私たち家族も秋田の郷里を離れ、彼に付き従うことになった。そして、それは私たち以外に誰もいない核家族で、父親が‘大将’で、私たちは‘部下’だったということになる。母親はあの厳寒の北海道で三人の娘らを育てるのに精一杯を尽くした。衣食住すべてにおいて心を砕いた。週末に訪れる、父の部下の皆さん方に振舞うために、大根を軒下に吊るして干し、それを樽いっぱいに漬けてた母親の姿が忘れられない。食べ盛りの兵隊さんたちがどんなに喜んだか。父親が‘偉い人’なんだとはよく母から聞かされた。それもどうやら千人に一人いるかいないかというほどの傑物なんだとか。そんな誰かがたまたま言った褒め言葉を私たち娘に繰り返した。だが私のなかでは、母親の偉さはそうした父親に負けずとも劣らぬ。 それにしても、改めて父親の履歴書を眺めると、敗戦後の日本の復興の苦難の歴史にそのまま重なる。皆が必死だった時代なのだ。男も女も、そしてどの家族も懸命で・・。余裕がなかった。優しさなぞは後回しであった。 だが、私は思う。夫婦であれ、親子であれ、お互いに<付き合わせている、付き合ってもらっている。だから、済まないやら有難い>がなければ意味がないと・・。父親の世代の男たちは概して<俺に付いて来い>タイプばかりで、自分が連れ合いに付き合わせている、あるいは付き合ってもらっている、そうした意識が得てして欠如している。父親も実にそういう人だった。<自分が死んでも、お母さんには不自由な思いは絶対させないから・・>とかねがね言う人だった。実に言葉通りであったのは確かだから、ご立派であったのには違いないが・・。彼は死を迎えた床で、酸素呼吸のマスクをしていて、もはや言葉を発することもかなわないため、代わりに手を合わせ、拝むような仕種をよくした。しかしそれは病院の担当医やら看護師さんらに対してであって、私たち家族にはそれはなかった。 私が入院中の父親を見舞うことと並行して、マンションの部屋の片付けに取り掛かっていたことには何ら触れなかった。父はベランダに5つ、6つの大型のプランターに朝顔の種を蒔き、育てていた。彼らしく綿密に支柱を組み立て、蔓を這わせて、見事にフェンス状にしてあった。葉は青々と茂っていた。そして花がそろそろ咲き始めた頃、彼は倒れて救急搬送で大津市民病院に入院したのだ。だから危篤状態を脱し、意識を回復した後も、ベッドの中で頻りにベランダの朝顔を気にした。それで花は咲いてるかと父に聞かれれば、私は綺麗だよと請合った。彼は喜んだ。朝夕の水遣りの大変さなどには触れなかった。私としてはいっそすべて刈り取ってしまいたかった。姉が、それは忍びないと反対した。だから、不承不承水遣りを続けた。勿論カメラで咲いた朝顔を写して、父に見せては慰めることもあったが、父親は自分が褒められるのは毛頭好きな人だから、私たち娘らが綺麗な朝顔を眺めて喜んでいるものと、むしろ内心誇らしく得意満面だったように思う。 そして秋になり、朝顔が枯れ始めた頃、彼は永眠した。そしてそれらのプランターの枯れた朝顔の蔓をいざ取り片付けしてみて、それがどれ程難儀なものか、やったものでしか分からない苦労なのだった。当分朝顔の顔なぞ見たくもないと私は内心思った。葬儀の後も、遺品の整理は延々と続いた。父はかねて<もらってくれることが親孝行だ>と、娘の私に言っていたから、実に有り難いとも言えるのだが。古美術・骨董品はともかく、一切老いの身支度などとは無縁な気侭な暮らしぶりだったから、マンションの片付けはまるで手付かずの状態で、遺されたすべては私の一手に任せられた。容赦なくバンバン断捨離した。私はお仏壇の前に坐り、一人愚痴ることがよくあった。<お父さん、えらいこっちゃですわ!耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んでおります。それもこれもすべてあなたが撒いた種です・・>と。父のウフッという含み笑いがどこからか聞こえた。親子の縁というものは、互いに赦されてあるということが肝心なのだろう。時が流れてみれば、浜辺で波が真砂を押し流し平らかにするように、いつしか恨みも嘆きやらわだかまりが跡形も留めぬものとなるのやも知れない。 だが、事実として私のなかで、例の「鳥の家族」事件があって以来、ずうっと己れを怪しみ続けた。父親がどこまでもお母さんを泣かせないで守ってくれるものか、一抹の不安を抱えていたのだ。いつしか親たちはそれぞれに老いを迎えた。母親がまず徐々に認知症の兆候を表すようになる。事態を飲み込めず、父親はそうした母親にいつものように‘発破掛ける’という具合で、やさしくいたわりの言葉をかけるなどは思いも寄らないことだった。しかしながら、それ迄にもう何年も母親は折々に体調を崩し、寝込むこともあったから、食事のことは勿論、洗濯やら買い物、家事一切をすべて父に頼りきっていた。だんだん母親が本格的に介護を必要となったときはもはやお手上げだった。姉夫婦の尽力があり、グループホームへの入居が決まり、双方共、生活に一応安定が戻ったものの、母親は父に対して申し訳ない思いで、自分を頻りに責めていた。昔、私たち娘が成長した頃だが、お母さんの自立のためには<いっそお父さんと離婚した方がいいわね>などと、お為ごかしに母親を焚き付けたこともあったが。やはり最期まで、母は父を頼りとした。<難しい人だけど、お父さんは、根はいい人なのよね>というのがよく聞かれる母の慰め言だった。それでどっちもが救われている。それはそれでいい。私は3人娘の中でも格別に父親には恩義があるわけだが、それはそれとして、敢えて彼に不満を言わせてもらうとすれば、<家族を自分に付き合わせている、付き合ってもらってきた>というのが無いということだ。彼が本当のところどう思っているか、聞いたことはなかった。それが或る日のこと、病院を訪れた際、父に尋ねたのだ。<これからお母さんとこに会いにゆくんだけど、お父さん、なにかお母さんに言伝てないかしら?あれば、私、これから‘伝書鳩’みたいになって伝えてあげるからね>と・・。メモ帳とペンを手に、父の言葉を書き留める態勢でそう告げると、なんと彼の返答は<あの世に行っても一緒に仲良くしようということぐらいやな・・>だった。わが耳を疑った。心底呆れた。じゃあ、この世では仲の良い夫婦であったと、彼は思っているんだわと・・。有り難うも済まなかったも、彼の口から聞いたことなぞないのに・・。確かに間違いのない人だった。老いて痴呆化してゆく危うく脆い母に、彼は出来る限り精一杯を尽くしたとは言える。だが、お母さんを泣かすことが一度もなかったとは言えないだろう。覚えていないというわけか。それもぎりぎり最期まで彼ら二人の夫婦の問題であり、娘の立ち入るべき事柄ではないのは承知していた。どちらも優等生で頑張りやさんなのだった。そして母は父に一歩も二歩も譲って、ついぞ父とは正面切ってのバトルをすることなしに終わった。<私だから、この人に付き従ってこれたんだ>という、彼女なりの意地もあったことは確かで・・。 家族することのメリットとは、‘愚かしさ’をさらけ出すことにあるというのが私の持論だ。それぞれに辻褄の合わない自分がいる、なんとか辻褄を合わせようとする。その苛立ちと焦慮から、互いが関わり合う中で摩擦も亀裂も生じよう。互いが互いを付き合わせながら、そして付き合わされながらも、その愚かしい自分が許されていると感謝できるといい。そして、子は親の‘愚かしさ’から学ぶことしかない。同じ轍を踏まないためにも。そのためにこそ、子は親を‘踏み台・叩き台’にすることが肝要だ。自分の始まりを始めるために・・。心の専門家になるというなら尚更に、であろう。 そして今や、私たち彼らの娘は、三人三様に、親たちの間では決して言葉として語られなかったであろう、<付き合わせている、付き合ってもらっている。だから済まない、だから有り難う>と言える関係性を辛うじて生きているように思われる。これは、慰め以外の何ものでもない。 こうしたことも実に生きてみなければ解らなかったことであった。あの「鳥の家族」を「鳥の家族」として認知できなかった自分の昏迷に踏みいって、油断ならない自分を見据えてきたように思う。現実として、私は父親の亡きあと、姉がもう疲労困憊し過労死寸前であったため、母親の介護を全面的に引継ぎ携わってきた。それは、父親に声なき声で<お母さんをよろしく頼む>と言われたと、私が自分勝手に一途に思い込んでいるせいだが・・。 ついこの前、母親が一時意識朦朧となり、救急搬送されたときはさすがに覚悟して、父に心のなかでメールを送信した。<お父さん、そろそろお母さんを迎えに来て下さい>と・・。<そうやなあ>という彼の声が聞こえた気がした。てっきりそうかとそのつもりでいたら、母は俄然復活を遂げ、穏やかな日常に戻り、折々に得意の活け花をして披露したり、書道に打ち込んだり、笑顔で89歳の誕生日を迎えた。願わくば早く彼らを一緒にして安心したいとつい勝手にも思ったりするものだから、なんだ、そうか、お迎えはまだまだ先なのね、と私は微妙な心境になったのである。 あの驚愕をもたらした「鳥の家族」の‘受難’エピソードは深く己れの中に息づき、自分の生きざまを油断なく見守る一つの契機としてある。それは己れの幼少期を辛くも懐かしく思い起こすことにもなったわけだが、実はさらにもう一つ、最近になって新たにふと或る気付きが頭を過った。 それは分析でいうところの「転移」とか「逆転移」ということになろう。私たちは‘今・ここ’での意識しか意識できないのであるが、実に‘今・ここ’の自分という場に意識は止め置かれていながら、そのいのちは過去へと漂流し、未来へも浮遊する。その意識の意識不能なる無意識閾では、もはや自分が誰を生きているのやら、不確実である。自分が相手している、或いは相手してもらってる相手が誰やらも分かっているとも言えない。自分が或ることを感じるにしても、その根拠というものは不確かで、輻輳的というべきか、なかなか一筋縄では行かぬものだと思われる。 確かにカーディナルのオス鳥への忌避感から推論し、あの瞬間に甦ったのは間違いなく幼少時に抱いた父親に対する排斥感情ではあったろう。だから‘反復強迫’と言ってもよかろう。それは認めるとして・・。だが、あの1980年代後半に遡って私の心的状況に思いを馳せると、どうやらあの昏迷の引き金となったのは、事実としてDr.メルツアー(Donald Meltzer)に対する疑念だと思い至った。 私の分析家であったMiss.ウエディル(Doreen Weddell)は、Dr.メルツアー並びにMrs.ハリス(Martha Harris)が【タヴィストック・クリニック】と袂を別ち、オックスフォードに活動拠点を移したため、それに追随した。私が毎日分析に通った、スイス・コテッジのあの居心地のいい寓居を捨てて・・。そしてほどなく一年もせずに1980年あっけなくも彼の地で永眠した。その移転にどういう目論見があったのか私は知らない。だが、私は彼女の訃報を知らされたとき、腹が立った。なんというざまかと激しく詰るような、正直そんな思いがしたのだ。そして俄然Dr.メルツアーに怒りを覚えた。Miss.ウエディルを守ってくれなかったじゃないかという彼に対する恨みである。これはまったくのところ「父親転移」と認めざるを得ない。おそらくそうだろう。それは認めてもいい。だが、これを単に私の心に巣食うところの‘昔語り’にしてはならないと思う。 彼女は、もう引退してもおかしくない年齢であったはずだし、彼を追っかけてオックスフォードなどという不慣れな地でそもそもどんな採算があってのことだったのかと訝った。彼女は、私に語る転移解釈の中でDr.メルツアーに言及することがあり、そこに微かな興奮が混じるのを聞き逃さなかった。私はDr.メルツアーにさほど深く入れ込んでいたわけでも、ひどく馴染んでいたわけでもなかったわけだし。深く傾倒していたとは言い難い。それで、ああ、彼女は彼がお好きなんだわ、と冷ややかに聞いてた私がいるというわけだ。 Miss.D.ウエディルは精神科看護婦の経歴のある方だったのだ。その事実も、またどういう経緯で分析家になったのかについてもよく存じ上げない。彼女から聞かされていないからだ。そして、やはり元看護婦だった私の母親とも重なるのだが、所詮は男というか、医師というか、ともかく何らかの権威を後ろ楯に頼るしかなかったということだろう。個としての我の自立は無理だったのかと歯がゆい思いを一瞬抱いた。精神分析の業界でいえば、それが日本であろうとイギリスであろうと、lay analyst(医師ではない精神分析家)の厳しい現実だというのは承知していたけれども・・。そして私の母親とも違うが、やはり彼女にがっかりしたのは事実だ。 一概に彼女がDr.メルツアーの巻き添えを食ったとは言えなかろうけれども・・。もしもメルツアーが徒党を組むなり、師匠格として弟子たちを束ねるならば、その傘下にある彼らの経済的な生活を保障しなくてはならないのではなかろうか。それが筋というものだ。だが、彼がそうした‘器’ではないのは確かだ。いい意味でも悪い意味でも・・。どこかでMiss.ウエディルが判断を誤ったのではないかと私は思った。勿論、なんらかの資産があるのなら話は別だが。女が独り、計算がなさ過ぎるのは問題だろう。なぜか、イギリスの女性たちはアメリカの男に弱い。ぞっこんとなる。それにDr.メルツアーと共同の仕事をすることは‘名誉’でないはずはない。それは確かにそうだが・・。 さらにこの靄がかかったような、Dr.メルツアーに対する不信感は、それから何年か後、1984年のMrs.ハリスの自動車事故によって再燃した。事故後の後遺症を抱え、半身不随、そして言語障害を得て、何年も闘病を強いられていたと伝え聞いた。あまりにも無念だった。それでも最期にはDr.メルツアーに感謝して亡くなられたと聞けば、尚も切なく哀れでならない。彼女が何故にそのような人生の末路を辿ったのか、まるで解せない。私としては絶対に容認できないのだ。それに事故当時、ご夫妻共々海外講演旅行中で、Dr.メルツアーもその車に同乗していたと聞けば尚更だ。 そもそもMrs.ハリスが自動車事故に遭うというのが信じられない。彼女は車の運転がお好きだった。或るとき、【タヴィストック】でたまたま玄関先で彼女の愛車を目にして、エレベーターでご一緒した折り、とてもご立派な車ですことと私が誉めたら、ええ、とても気に入ってるの、と彼女は答えた。そこには彼女には珍しく幾らか興奮があった。事故の知らせが届き、瞬間に頭に閃いたのは、彼らご夫妻に諍い・不和が生じていたのではないかということだ。途方もないと、その妄想をすぐさま打ち消したが・・。 ふとDr.メルツアーに対する猜疑心の芽生えとして一つ思うことは、彼には二度の離婚歴があるということだ。それにDr.メルツアーという方の著作をずらっと見渡せば、その折々に彼に霊感を与えたミューズ(女神たち)が見え隠れする。オックスフォード移転以降、そのミューズがもはやMrs.ハリスではなくなっていったということはあるのではないか。女の嫉妬など、想像することすら嫌だ。でも、当時Mrs.ハリスの平静さを失わせる何ごとかがあったのではないかと思うと悼ましい。憶測が飛び交う。誰も私に真相を語ってくれない。ジョン・ブレンナーの私宛の手紙にも詳しくは触れられていない。まるで緘口令が敷かれてるみたいで、そこに‘罪’の臭いを嗅ぐ私がいる。いつかしら誰かがこの私の疑心暗鬼をさっぱりと白紙撤回してくれて、心を鎮めてくれたらと願っている。 かくして、常日頃には感傷を忌み嫌う私が、この件では妙にしつこくこだわっている。更に悪いことに、メラニー・クラインの死後に出版された論文《On the Sense of Loneliness》 (孤独感について)(1963)を眼にして、疑念がいや増さった。この中に提示されている或る男性の症例が、実はメルツアー本人だということらしい。彼自身は、どこかでそれを栄誉として語っているらしいが・・。 メラニー・クラインはこの症例を素材にして「孤独感」について見事に論述している。かつてその男が子どもの頃、どちらかというと家庭や母親との関連では孤独を覚える向きが強かったものの、でも至極活発な子で、森や野原をほっつき歩くのが大好きであったとか。自然の中でのびのびと思う存分やんちゃ坊主ぶりを発揮した。鳥の巣を奪ったり(おそらく卵を狙ってのことに違いなかろう)、それやら牧草地の生け垣を蹴散らしたり・・。その強迫的ともいえる野外(自然)への愛着が、実は彼の‘閉所恐怖症’と密接に関連している、とM.クラインによって詳述されている。それ自体も実に興味深いが、問題は、その中の或る罪悪感について表明されている箇所である。成人した彼が、どこか田舎への旅の途中で、一匹の野鼠を捕らえた。彼の息子がその生き物をペットにして喜ぶだろうと思い、息子へのプレゼントにするつもりで車のトランク中に入れておいた。そしてうっかり忘れてしまい、そのまま放置してしまうのだ。そして一日経て思い出し、慌てて見てみると、野鼠は入れてあった箱を食い破って外へ逃げ出し、トランクの隅っこにひっそりと身を隠し、そのまま息絶えて死骸となっていたという話である。これが引き金となり、その後何の根拠もなしに、人の死に自分の関与を否定しきれない咎めを覚えるといった、罪の意識を彼にもたらしたというのだ。この逸話は、実に、Dr.メルツアーが生涯心情的に断じて許すことのできなかった、ナチスの強制収容所のユダヤ人虐殺とも重なる。それも被害者としてばかりではなく、加害者としての悪夢をも内に抱えていたということが窺われる。だとすれば、尚更に妻なるマーサ.ハリスの事故は、メルツアーにとってあまりにも酷かろう。 臨床素材というのは、まるで蜘蛛の糸のようなもので、連想は輻輳的で、その瞬間瞬間で目まぐるしく変幻自在するから、すべて解釈は‘今・ここ’の転移状況で試みられるし、そこから誰であろうとその人の未来を予言することなぞ出来はしない。また、してはならない。ただ残念ながらというか、油断大敵と己れの舵取りを誤らぬようにしない限り、そして仮に油断しなかったとしても、事実同じことが繰り返されることは、まさに精神分析の発見の一つである。下手すれば、「一歩前進二歩後退」となりかねない。分かっているつもりなぞ、生涯永続する保証はない。‘心の躓き’は繰り返されると観念するしかない。メルツアー自身も「天路歴程」(バニヤン著)の愛読者だったらしいが、己れの熱情の辿った生の軌跡を振り返り、苦くも自らを重荷を背負う一人のピルグリム(巡礼者)になぞらえている。つまりはどこにもかしこにも罠があり、時としては思わず知らず己れ自身、そこに嵌るというわけだ。救済への道は、実に‘路険し’ということ。だからこそ精神分析家になるということは、とことん突き詰めて徹底して己れ自身をこそ踏み台・叩き台にしてゆくことが志向される。そして、そこで得た理解が独創的であるのは自然の理だと思われる。彼固有の、彼なる人の‘救済’が意図されていたのだから。そして、その理解は、同時に周りの誰彼を巻き添えにせずにはおかない。己れが解放されるためには、他者をも解放せんとするだろうから。それも要らぬお世話でなくもない場合もあろうが・・。だが、彼にはただ邁進あるのみだった。確かに彼は強運だった。海外講演旅行もそうだが、出版事業も・・。それも著作が海外で翻訳されるということに彼は痛く執心したわけで。勿論日本ででもいつかは、と彼は願っていた。或るとき私は彼に、日本における彼の著作の翻訳出版は今はまだ時期尚早だと申し上げたことがあった。それは彼にはお気に召さなかった。根っからのリアリストである私にしてみれば、時期尚早ということが彼に伝わらないことがむしろ不可解だった。何しろあの当時の日本ではメラニー・クラインの著作ですら未だ翻訳は試みられていなかったのだから・・。 そして、彼の亡き今、我らの手に彼から遺された多くのものがある。それらを咀嚼するには時間が掛かろう。その動きが日本でも始まっている。生来の臆病さゆえに手控えていた私の代わりに、今や私の【タヴィストック】の後輩たちがメルツアーの翻訳に果敢に挑んでいる。真に感慨深いものがある。 もし誰かが何某かの縁(えにし)を彼という人に感じたならば、手を挙げるがいいだろう。だが、専門家としての業績づくりのためならば無意味である。一個人として彼との縁(えにし)を深刻にそして真摯に捉えてこそ意味が生まれる。彼に倣い、苛酷に自分を追い詰めてゆくことになろう。後で巻き添え食ったと嘆くことではない。だが、怖くないなどと侮ってはならない。真実怖いのだから・・。勇猛果敢さをメラニー・クラインから引継ぎ、メルツアーは己れを切磋琢磨し、ひたすら邁進したといえよう。彼らはそれぞれのいのちが内に抱える‘因縁’に互いに寄り添い、固く結ばれた二人であったのだろう。その意味では、Dr.メルツアーの生涯はあっぱれ僥倖といえなくもない。 Dr.メルツアーは、Mrs.ハリス亡き後には、オックスフォードでお一人の生活をなされておいでで、だが或る対談(1998)では、ご自分の孤独感なるものをきっぱり否定なさっておいでだ。それは独りでも全然寂しくはない、心の中に話しかける人たちがいるからという意味らしい。成程、ああ、良かったと私は安堵した。その一人が誰あろう、Mrs.ハリスならば、私の心も慰むというものだ。彼は、精神分析のセッションを‘Verbal Intercourse/言語的交わり’と呼ぶことがあったわけで、それが実に‘Good Intercourse/良き交わり’であることを私は強く望む。彼が彼女に心の内でどのような呼び掛けをしていたものやら。それで、<貴女を付き合わせた、貴女に付き合ってもらった。だから済まない、だから有り難う>が果たして言えただろうかと思う。そうであったと思いたい。 だから、それをたまたまメルツアー関連の或るWebサイトで見掛けてしまったのだけど、彼の80歳の誕生日の祝賀パーティで、キャサリン・M・スミスと手を取り合ってダンスしている、いかにもご満悦の体のにやけた顔をしている彼の写真など私は見たくなかった、というのが本音だ。Dr.メルツアーとMrs.ハリスは、いうなれば私にとって‘親なるもの’なのだから、いつまでもいたわりあい、寄り添っていて欲しい。そして、互いの絆の中に信義(loyality&sincerity) があったと思いたい。それは子としての祈りでしかないのではあるが・・。それを私が断念するいわれもなかろう。 【クライン派精神分析】の究極に目指すものが「同胞愛」だとしたら、それは心の内に信義によって結ばれ直された「結合両親像(Combined Object)」が前提となる。要諦は、彼らが相互に抱き合い、結束を固め、内に抱えるところの子らの誰一人として除け者にしない、迷子にさせないと決意することにある。この誓いこそが私の提唱するところの【贖いの器】の謂いである。そうしたことを実に私は彼らから教えられはしなかったか。もしそうだとしたなら、彼らに私は心から訴える。断じて私を迷子にしてはならない・・と。彼らと交わった当時の記憶が虫食いだらけ寸前にして今ようやくに蘇り、これから尚もいっそう彼らに導かれてゆかねばならぬと切に願っているのだから・・。 人生の終着点って何かしらとふと思う。概して私は‘女の味方’だと自負している。が、同時に‘男の味方’でもあるのだ。いずれにしても、そこに信義のあらんことを切に願う。いうなれば、これが私の‘願掛け’である。「鳥の家族」で一度躓いた私は、己れのなかにあった危うさをいつまでも忘れず、だが頑として悲観に陥ることだけはしたくない。互いに愚かしさを認め合うことが許されるといった、人との繋がりの類い稀なる幸運をいつか己れ自身も与えられんものと、そんな夢を抱き続けてゆくであろう。 |
そして家に戻り、サキちゃんのお母さんが赤子のアッくんの世話をしている間、私はサキちゃんと一緒にお絵描きして遊んだ。その際、なんとも驚愕する‘ハプニング’を目撃したのである。テーブルの上には私が手みやげとして持参して来たアネモネの花がガラスの花瓶に飾って置かれてあり、それを私はクレヨンで紙に描いて彼女に見せたりしていたわけだが。ややしばらく間を置いて、やおら彼女の手がそれに伸びたかと思いきや、何とアネモネに掴みかかり、花びらをむしり始めたのである。えっ、お花が怖いのじゃなかったの?!では、彼女の「花恐怖症」は一体何だっていうのか。一人唖然として感慨に浸る私を尻目に、彼女は無言のうちに執拗な‘破壊行為’を続けたのであった。 花とは、よく知られるように女性性器(ヴァギナ)である。この‘象徴形成’を心得るものには、サキちゃんが花を怖がったり、それに無闇な攻撃を仕掛けたりするという意味が自ずから知れるというものだ。これは衝撃だった。そして、2歳になろうとしていた幼いサキちゃんの心の紛れもない、「内的現実」を知る手掛かりとして、私を深く魅了した。 【クライン派精神分析】の真骨頂とは、部分対象part-objectsの言語に精通し、駆使できるということだ。「子どもの世界観」とは、小児的性愛に彩られたものであり、その世界を構成する主要因子とは母親・乳房と父親・ペニス(=乳首)である。つまり、この世の中はすべてこれら原初的表象、おっぱいとペニスで成り立っているというわけである。いかにアカデミィックな意匠を装おうとも、そうした「子どもの世界観」は事実として揺るがない。おっぱいとペニスとの組合せの様相(ドラマ)こそがメラニー・クラインの見たものである。心がその成長に伴い、自体愛的・ 性的快感の希求から、いつしか対象希求的へと移行されることへのスッタモンダ。そして、自他未分化から自他分離への過程においてのまさにスッタモンダである。あまりにもこの猥褻かつ猥雑なる子どもというものに、誰しもが目を剥いた。彼女に追随したものたちは衝撃を受けた。イギリス人の生来の慎みからして、大いに困惑したに違いなかろう。困惑を隠しきれず、袂を分かった者も少なからずあり、かつ追随者の中にあっても、メラニー・クラインの泥臭い、洗練されていない、粗雑な論理構築に辟易し、よりアカデミィックな言語体系という意匠にバージョンアップせんとこれ努めた者もあったろう。だが、メラニー・クラインの衝撃は、人々の胸を射抜いたと言っていい。荒唐無稽と笑えない、その事実が事実だとしたら・・。それで、彼らはまずは「乳幼児の観察」から学ぼうとしたのだ。そうした根っからの経験主義的なイギリス人のナィーブさにメラニー・クラインは大いに助けられたと言えよう。 そしてそこから分かったことは、思考能力も、そして人格性もが、その基盤からして、突き詰めれば原初的対象なる「おっぱい&ペニス」との結合〔結ばれ〕如何に依拠するということになる。心の豊饒さも不毛性もそれ次第だから、そこから目を背けるわけにはゆかない。それこそがまさに精神分析が取り組んでいる問題なのだ。我々臨床家は、人としての成長を阻む要因を探さんとする。どこで我々の心は躓くのかと・・。メラニー・クラインはその一つとして「羨望envy」を掲げた。サキちゃんの「花恐怖症」とは、実にこれである。 実はこれに付随して、当時の或る光景が想起される。サキちゃんは、食卓に運ばれる食べものを次から次へと拒絶し、頑として受け付けないのであった。頭をイヤイヤと振って、そっぽ向く。その都度、何とか食べさせなくては躍起になるサキちゃんのお母さんは、では、あれはどうか、これはどうかと、台所と居間を往復するのであった。単なる偏食ではなさそうだ。彼女はそうした母親の忍耐をあざ笑うかの如く、あるいは何かしら恨みを隠しもっているかの如くといおうか、母親を翻弄することを大いに痛快がっていなくもないといった執拗さがあった。私などは日頃どれほどサキちゃんのお母さんの手料理を喜んだことか。あの異国で、日本料理の皿の数々が目の前に並べられることの嬉しさは言葉に尽くせない。だからサキちゃんのこと、内心、罰あたりめ・・ぐらいに私などが思ったとしてもおかしくない。だが、もの悲しかった。彼女は明らかに混乱していた。羨望という‘心の棘’に苛まれていた。それが当時のサキちゃんだったのだ。 ずうっと後で聞いた話なのだったが、第二子の出産を控えていた頃、一時出血があってサキちゃんのお母さんは切迫流産を怖れて緊急入院をした。それもご主人がトルコへ旅行していた最中で不在だった。それで急遽サキちゃんは3日間フォスター・ホームに預けられていたんだという。当時まだ1歳半頃だとしたら、訳がわからず、どれほどサキちゃんが混乱したかは想像に難くない。確かなことは、それ以来、お母さんがちょっと横になると、ギャーギャーって喚くということがあったということだ。 そして、いざという出産の当日、私はたまたまサキちゃんのベビーシッターを引き受けた。ご主人が何かよんどころない事情で外出していたせいだが。サキちゃんのお母さんは鷹揚に事を構えていて、病院に電話して救急車が迎えにくるのを待っていた。彼女ののんびり落ち着き払っている様子には、こちらが戸惑うほどで、私の方が慌てて、一応サキちゃんにこれから起こることについて説明は要らないのかしらと彼女に念押しをしたが、まあいいでしょうと頓着しない。ちょっと買い物に行ってくるからといった雰囲気で出掛けてしまう。私はサキちゃんに、お母さんにバイバイしようねと、部屋の窓から見送らせる。それから、ボールで遊んだり、絵本を一緒に眺めたり、こちらが刺激を送り続けると、何とか反応が続き、間が待つ感じである。ところが、ちょっとこちらが気を抜くと、途端に床にゴロンと横倒しになった恰好で指しゃぶりを始める。どこか気が奪われている様子があり、私は、これじゃダメだと、危機感を煽られ、慌てて彼女の気を引かんとして、再度遊びに誘う。事態を充分に把握していたわけではないが、なにやら不穏な空気を嗅いだ。ともかく帰宅したご主人にサキちゃんを引き渡して安堵した。 だが、その後の報告を伺うと、無事出産を済ませた母親を翌日病院に父親に伴われ尋ねた折り、サキちゃんは母親の側へは抵抗して行きたがらないやら、理由もなくカナキリ声をあげるなどのひどい様態を示して、ついには‘招かれざる客’として病室から追い出されたんだとか。サキちゃんのお母さんは3日目にはもう退院して、自宅に戻ってきたわけだけど。それからのサキちゃんは夜昼となく始終泣き喚き続け、赤ちゃんの授乳の際は哺乳瓶を奪わんと大騒ぎするやら、もう大変だったと聞かされた。 さらに追い討ちをかけるように、アッくんの誕生の1週間後、ご主人の父親が危篤との知らせが入り、急遽日本へ一時帰国した。この間のサキちゃんのお母さんの心労を思うと、ほんとに頭が下がるんだけど。私も含め、周りからのサポートを得て、なんとか凌いだ。問題はサキちゃんだったわけで。やっぱり帰ってきたパパを怖がって、お母さんの方へ逃げたんだとかを後で伺った。ボタンの掛け違いどころか、もう何が何だか訳が分からぬといった状況であったろう。「退行regression」は当然だった。赤ちゃんのアッくんが寝かされてあったベビーサークルの柵を越えて、サキちゃんは何が何でも中へ押し入ろうと実力行使する。アッくんを踏み潰しかねない。彼がサキちゃんの‘狼藉’の犠牲にされるのではないかと恐れ、まるで目が離せないと母親からの報告があった。ベビーサークルの中にいるアッくんの姿なぞまるで何もサキちゃんの眼中にないかのごとく、唯々自らのからだを、かつて自分が寝ていたそこに収めんとして、その思いに取り憑かれたごとく必死の形相なのであった。「自分のものを奪った弟憎し!」の感情というよりも、ただただ赤ちゃんだった自分の居場所が失なわれたという困惑・混迷の深さをそこに見る。ついこの前まで自分が赤ちゃんだったのに今はもう赤ちゃんじゃない自分が何とも承服できない。お姉ちゃんになるということには何の意味も見出せないのだ。 それで、母親が<いけません!>を再三サキちゃんに言うのにくたびれ果て、窮余の一策として、悪いことをしでかしたら(或はしでかそうとしたら)、<いけません!>という言葉とともに、サキちゃん自身が自分の右手で左手の甲をピシャッと叩くという具合に躾けた。それが効果てきめん。或る日私が訪ねて行った日、テレビの画面に幾つかの塔が一斉に爆破される映像がたまたま出たのだが、それを眼で捉えた彼女が、その爆破の瞬間、間髪を入れずに、ごく反射的に自分の手をピシャッと叩くのを目撃した。<いけません!>という言葉を胸の中でひとり反芻しているような沈鬱な面持ちで・・。外界に生じた‘破壊’を、我身の内に逆照射した恰好で、己れの罪障感に繋げて、まさに引き受けた彼女がそこにいたと言えよう。私はなにやら哀れで切ない思いがしたものだ。かくして、一見うまく‘飼い馴らされた’とも見えた彼女だが、実にその内側では一筋縄ではゆかぬものがあったろう。この罪障感がいつしか羨望とも絡んで、彼女の心の内に「花恐怖症」を結晶化させたとはいえないか。 「羨望」が弾劾されるべきとは一概に言えない。故なくして起こりはしない。そこには‘剥奪された’という記憶の傷痕を引きずっている。心に風穴が開き、そこには記憶の残骸が埋め込まれている。私はどこに居た、誰と居た、それであれは何だったのか、それはどうして何故だったのかと、問いは延々と続く。バラバラな断片が拾い集められ、絵解きを待っている。それらが意味を成すのを、さらには己れ自身の立つ瀬をも探しているわけなのだ。それがいつしか精神分析との縁ともなることもあろうが・・。 心の痛みは、嘆きとなり怒りともなる。そして悲鳴をあげつつ、悪鬼の如く、もの狂おしい暴虐に身を任せ、その果てにいつしか虚脱し、ついには侮蔑を援用する。そしてそこには、もはや顧みられることのない、役に立たないuselessヴァギナとして葬られてしまう‘母親・乳房’がいる。そこにこそ‘父親・ペニス’の復権が希われる。それら両者の断たれた結び目が、その繋がりを取り戻すことによってしか、心の内なる安寧はあり得ないのだから。今一度己れが抱えられるために・・。しかしながら、それは果たしていかにして成就するものなのか。それこそが精神分析の永遠の尽きせぬ課題となる。 私が日本に帰国して、サキちゃんに再会したとき、彼女は幼稚園の年長さんになっていた。恥ずかしそうに控え目にニコッと笑う。サキちゃんが穏やかでおおらかに育ってる印象を受け、私は大きく安堵した。そして、或る晩のこと、夕食を済ませて、そろそろ就寝時刻となり、彼女はパパと一緒に入浴していた。そして風呂上りのパンツ一枚のまま、湯冷めをしないようにとお母さんに促されて、風呂場から私のいる居間のストーヴへと駆けてきた。ストーヴの周りには金網で柵がしてあって、そこには彼女の着替えの下着やらパジャマ類が温められてあった。それを手にしながら、<ママ、優しい・・>と、彼女が呟いたのを、私は一瞬聞き逃さなかった。ああ、そうか、サキちゃんはお母さんと折り合いを付けたんだと悟った。大きな感動を覚えた。そうして、我が娘の心をしっかり掴んでいるサキちゃんのお母さんに私は心の中で呼びかけた、<ブラボーじゃない!勝ったわね。おめでとう!>と・・。 尚も補足すると、サキちゃんのお母さんは、ロンドン滞在中の娘の「花恐怖症」のことはもはや何も覚えてないとおっしゃる。無論のこと、幼いサキちゃん自身にそうした過去の記憶があろうはずもない。私の頭はこんがらがり、咄嗟に、ではあの当時自分が見た、あのサキちゃん、その忘れ難い記憶、あれらはすべて幻だったのかと大いに怪しんだ。 ところが、サキちゃんが二十歳頃になって、建築家のパパに倣って、インテリア・デザイナーを目指していると聞いた瞬間、とても腑に落ちた気がしたのだ。彼女ならとても良いインテリア・デザイナーになれるに違いなかろうと確信した。そう、彼女にはそれを志向するだけの内的‘必然’がまさにあったと言えるのだから。それは即ち、己れの中において‘破壊されたもの’がまさに償われんとすることである。内的世界が惨禍から蘇り、詰まるところ原初的対象である母親・乳房&父親・ペニス〔=乳首〕の結ばれが修復されんがための心の営みである。自らの内なる罪障感やら無力感と闘いながらも・・。 これは逆説的に、サキちゃんの中に、この長い歳月、「花恐怖症」が尚も厳然として息づいていたと言えはしないか。それがいつしか「償い」へと彼女を内側から促し、駆り立てていたというわけだとしたら。彼女の職業選択もその一つの顕われであろうから・・。サキちゃんの無意識は、それを自分で知っていて知らない、そして知らないで知っている。そうは言えないだろうか。もしも私があの折り見たもの、それがまるっきり妄想でも幻影でもなければ・・。そのように私には確信されたのである。そして、心の営みが自ずからそのような筋道を辿ること、つまりそれ自身の‘物語’を紡いでゆくことに、改めて深い感動を覚えたのである。 このエピソードは、精神分析家としての私にとって一つの‘啓示’ともなった。日々のセッションにおいて、分析患者たちが、子ども・おとなを問わず、個々それぞれに生と死とのせめぎ合いの中で葛藤する場に立ち会うわけだが、たとえ躓き、絶望し、自暴自棄になったとしても、彼らはその死の囚われから尚も出口(光)を、つまり再生への道筋を希求する。そうした彼らの己れを掴みとらんする手に、私も又手を差し延べることを諦めてはならないとの励ましの声を聞く。 |
セラピストは、セッションとセッションとの間は勿論‘不在’であり、年に何回か幾週間かの決められたセッションのお休み(ブレークbreak)があるというわけだから、当然原初的対象(乳房)の‘不在’を巡る心的相剋が否応なしに惹起されるわけである。転移解釈はそこに焦点づけられる。特にクライン派の場合、その陰性転移の解釈は容赦がない。慰撫するということはあり得ない。徹底操作(work-through)することが援助されるというわけだ。私の分析体験でいえば、私の分析家だったMiss.D.Weddellは、解釈する中で‘ペインフルpainful’という言葉をよく使った。あまりに頻繁に使われたので耳にタコが出来るほどだった。<心が痛むのね>ってわけだ。だが、私はだんだんそれに飽き飽きしてくる。<だから何なのよ・・>と内心呟く。むしろうるさいと苛立った。冷ややかに聞き流す私がいたように思われる。 【タヴィストック】の同期にアン・カプランというアメリカ人の女性がいた。深く交流したわけではない。当時にしてDr.アン・カプランだったから、おそらくアメリカから【タヴィストック】に来て訓練生になる迄に博士号の学位を取得していて、実践的なキャリアもおありだったのでしょう。私を含めて他の訓練生はまだまだ若くて、海のものとも山のものとも分からぬ者が多いなかで、彼女には別格の風があった。精神分析を受けていたのは私などよりも遥か以前だったろうと推測されるし、仕事も安定した職に就いていたに違いないのだが。ついぞ親しく彼女の経歴なりを伺うこともなく終わった。その彼女が何故に私の中で忘れ難いのかというと、或一つの出来事のせいだ。我々同期生は、訓練が始まった最初の1,2年はまだ将来が定まらず、不安だったこともあり、情報交換も兼ねての親睦のため集まることがあった。或る日のこと、今では記憶も朧だが、アン・カプランの住まいに皆が集った。引っ越したばかりで、壁を自分でペンキで塗ったとやら。部屋は簡素でこざっぱりしていて、書棚に並んでいたのはわずかばかりメラニー・クラインの著作であるのにはちょっとびっくり。それしか要らないのかと。それだけあれば後は結構というのが実にさっぱりして潔い。 その折、よもやま話のなかに、パーソナル・アナリシスを受けててどうでこうでと、ごくプライベートな話がアンの口から吐いてでた。当然彼女はもう十分に安定し分析に根付いているはずと思いきや、彼女が顔を曇らせ、肩を降ろして言うには、<だって、分析セッションがしばらく無いというと、まるっきり前歯がごっそり抜け落ちるような気になるんだもの・・>。‘前歯がごっそり抜け落ちる’と述べたときの彼女の身振り・手振りには実に説得力があった。剥奪感deprivationの凄まじさに圧倒され、私はギャアーと思わず内心呻いた。この瞬間、何やらとてつもない‘異文化’を感じ取った。大のおとなが、アン・カプランともあろう人が、そこまで分析のブレーク〔中断〕に打ちのめされるということに衝撃を覚えた。私とは何という違いだろう。 アン・カプランがユダヤ系の出自であることを誰に聞いたやら、何故か私は知っていたようで。だからといって、ユダヤ系アメリカ人なるものに殊更興味があったわけでもない。だが、この瞬間、己れがどうしても太刀打ち出来ない、とんでもない代物を相手にしてるんだということを思い知った。ユダヤ人なるものは侮りがたい、と心底恐れた初めての体験になる。私なぞは、分析が休みに入るとほっとした。体が休めるだけではなく、分析料金が浮く。一息付けるというぐらいのものだった。そうしたことがどれほど浅薄なことか、自分のメンタリティのなかに‘対象不在’に対しての痛苦の感受性が育っていない、受苦の能力がどれほど底の浅いものでしかないかを悟らざるを得なかった。ユダヤ人なるものの生来備わったDNAを私は持ち合わせがないという劣等意識には辛いものがあった。精神分析へのレディネスreadinessという点であまりにも遅れをとっている。焦った。 確かに私の分析体験はスッタモンダしていたし、同期で比較的親しくしていたアイルランドから来たノエルと互いに打ち明け話をしても、その違いは明らかであった。私としてはうまく事態が飲み込めず混乱していた。最初の頃の社交的な私の‘いい子ぶりっこ’をかなぐり捨てずにいられなくなり、違和感やら困惑やらを抱えて、分析が役に立つどころか、混乱が募ってゆく。なにやらなじめないという印象で、不満やら鬱憤が吹き出していた。ノエルなどは、そんな私の話を聞けば、私の分析への反応におそらく分析家は‘手応えあり’とむしろ興味深く感じているのではないかと私を慰めた。彼の鷹揚さには感謝しても、私にしてみれば、慰められるどころじゃなかった。どこかボタンの掛け違いというか、思惑違いというよりも無知ゆえにこの貴重な経験を生かせない、それもこれもむしろ自分側の欠如、またそれに止まらず、何やら日本人の致命的な欠陥を思い知らされると、やはり心がささくれ立ってゆくのだ。『精神分析』に適性がないと言われることを恐れていたとは思っていない。とにかく役に立つものだと思い込んでいたのに、これは一体何だという憤りなのだ。疑心暗鬼に陥り、譬えれば「暗号解読」の際に自分だけが《鍵》を奪われているような、そんな恨みが募った。苛立った。 この《暗号解読の鍵》の一つが、‘ブレーク/中断’、即ちセラピストの不在を巡って転移状況を読み解くというものであった。それがセラピイの進展を解き明かす肝心要でもある。セッションの始め、そして終わり。週ごとの始め、そして終わり。‘ブレーク/中断’を挟んでの学期の始め、そして終わり。そして年ごとの始め、そして終わり。重層的にブレークは反復される。セッションのブレークとは即ちセラピストの不在である。それがどのようなものとしてクライエントに体験されるか。‘心的痛み psychic pain’がどのような変容に至るのか、転移状況において、その転移内容が吟味検討されてゆくのだ。 私のトレイニング・ケースの一つに、タヴィストック・クリニックで会っていた、ハンナという8歳の女の子がいる。なんと夏期休暇を控えた或セッションに、完全防備の真冬のいでたちで現れた。フード付きの分厚いコートに厚手の手袋と・・。‘内’に抱えられた子ども(inner-child)の彼女は、今こそホームレス(outer-child)となり、寒空の‘外’へ放逐されると感じていた。何ももらえない、だからその飢え・ひもじさに備えて、がっちり彼女の両腕には本が幾冊も抱えられていた。セッションが無いという‘剥奪’を凌ぎ、その間なんとか生き延びなくてはという、悲壮にも健気な面持ちであった。これは衝撃だった。 ハンナもユダヤ系だ。母方の祖父が精神科医で、叔母がサイコセラピストなんだそうな。アン・カプランにしてもそうだ。たかが休み、何もそこまで深刻に‘剥奪’と捉えることもないじゃないかと思うのは、こちらの能天気さだ。剥奪=迫害と取る。それも彼ら独特だ。ハンナはセッションのなかで私に直接的に身体的な危害を加えようとすることがあった。爪を立て、私の腕を引っ掻こうとする。一瞬の油断も隙も無いのだ。そして彼女は叫ぶ、<あなたのこと、大嫌い。憎んでやる!だって私のこと、愛してくれてなんかいないじゃないの!> いい加減にしてくれとは言えない。これがセラピイにおける転移状況なのだから。この対象不在にまつわるメンタルな受け皿は私には持ち合わせがなかった。負けたと思った。勝てないと思った。対象の不在がもたらす、冷え冷えとした吹きさらしに晒されて、抗い、そして敢然と挑む熱塊なるもの。それを彼女らのなかに見た。厄介でもあり、格好悪くもある。だが、<いい加減にしなさい>ではごまかしようがないことは明らかだ。そして吐息まじりにいつも私は思う。心に嘘がない、それは確かだ、と・・。紛れもなく人としての‘値打ち’ともいえよう。或る意味、それこそ「精神分析」が目指すもの。私の知らなかったそれ。痛苦への感受性、それをまさに体現している彼女らから教えられたものは大きい。 私には一歳半年上の姉がいる。記憶力は抜群なのだ。一方の私はというと、幼少時、生地の秋田の記憶が実に朧で薄ぼんやりとしている。或る折にふと、私が本荘の伯父さん宅に‘もらわれて’行ったのはいつ頃のことか気になり、姉に尋ねた。それも呆れた話、今更ながらで、ロンドンから帰国して何十年も経っていた。私のパーソナル・アナリシスでもそのことは語っていないはずだ。だが、私の性格形成にあの当時のことが深く影を落としていると薄々感じてはいた。それで聞かれた姉がことのついでに私に語ったことには、私が本荘から戻ってきたとき、お母さんの顔をまるで覚えてなかったんだと言う。それで母親が、チズコは私のこと忘れていたと嘆いていたと言うのだ。これは衝撃だった。まさにジョン・ボウルビィのいうところのdetachment(無関心)ではないか。だがこの姉の証言は、私にはひどく腑に落ちるものがあった。 本荘の伯父さん宅には私より5つ年上のノブちゃんという一人娘がいて、私を妹のように可愛がってくれた。一緒に浴衣を着せてもらって夜祭りに出掛けた。夜店に並べられたブリキの如雨露を一個買ってもらった。可愛い赤い金魚の絵が描かれてあった。嬉しかった。その折もノブちゃんは釘を刺すように私に言う、<だから、帰っちゃダメだよ>と・・。つまり「うちの子になれ」ということだ。まるで餌付けされるみたいで、子ども心に困惑した。色好い返事も出来なかった。彼女は躍起になって、私を引き留めようとしていたのだ。 そんな或る日のこと、前郷の本家のカツコ伯母ちゃんが偶然立ち寄った。お昼時一緒に食事していて、彼女がふと何気なく私に聞いた、<チイちゃん、お母さんに会いたいか?>と・・。私は返答する言葉も持たず、ただポロポロと大粒の涙を流した。目の前のちゃぶ台の上のライスカレーの皿がぼやけて見えた。カツコ伯母ちゃんは慌てて、<泣かなくてもいいんだよ>と言った。そして、前郷に一緒に連れて帰ってくれることになったのだ。ノブちゃんは学校に行っていて、家にはいなかった。だから、さよならも有り難うも言わずじまいで。不義理したとの思いが辛く心に残った。 さて、カツコ伯母ちゃんに連れられて前郷に着き、一旦本家に立ち寄ったのだろう。そこには他の親族の者らと一緒にたまたま母が居たのだろうが。まるで覚えていない。意識がないのだ。母親の顔を覚えてなかったとしても、面当てに拒絶したということではない。今憶うに、なにやら自分が悪いことをしたような思いで身を竦ませていたのかも知れない。当時、私の父親は警察予備隊に入り、しばらく赴任先を転々とした後に、ついには幹部候補生の訓練のため久留米に行ってて不在だった。‘口減らし’というほど我が家が困窮してたわけではないけれど、本荘の伯父さん宅は裕福であったし、一人っ子のノブちゃんに遊び相手がいたらいいぐらいに思い、三人姉妹のうちの一人ぐらいはうちで預かってもいいと伯父が申し出たんだろう。義侠心のある伯父らしい。そうした大人たちの配慮はともかく、‘もらわれっ子’という言葉がそれ以来、私の心に刻印された。当時はまだ戦後間もなくで、世情の落ち着かない頃だったし、親戚間での子どものあげたり・もらったりは巷ではよく聞く話だった。我慢をしなくちゃと健気に思っていたはずだ。決して不自由などしていない。お隣が花屋さんのお宅だったから、時折カサブランカの白い大きなユリの花束をいただいた。今でも花屋さんの前を通り、その香りを嗅ぐと、つい引き寄せられ、あの当時を懐かしく想い出す。‘もらわれっ子’の侘しさなど自分ですら意識していなかったであろう。大人たちの配慮を思えば、自分の一存で勝手に母のもとに戻ってくるなど許されるものか心もとなかった。自分の居場所が定まらず、ぼんやりと立ちすくんでいたはずだ。懐かしい母親に駆け寄ってゆく勇気などなかった。それにしても、母親の顔を覚えてなかったという、それが幼い私だったと姉から聞かされれば、それは衝撃だ。4歳時の、たった一夏の別離でしかなかったのに・・。でも、明らかにそれこそが、私の心がひび割れ、意識が裂けた瞬間なのであったろう。そしてこの因縁があったればこそ、いつしか遥か遠く時空を隔てた彼の地ロンドンで『クライン派精神分析』に出会い、‘痛苦への感受性’を回復せんと格闘することへと己れ自身が導かれていったというべきであろうか。 |
Margaret Rustin(マーガレット・ラスティン)【子どもの診断;セラピイへの適性とは何か】(1982)(+訳者あとがき)
Margaret Rustin(マーガレット・ラスティン)【セラピストが窮地に立たされるとき】(2001)(+訳者あとがき)
Martha Harris(マーサ・ハリス)【青年期臨床:心の躓き、さらなる心的苦闘のあらまし】(1976)(+訳者あとがき)